沈黙

 九州電力の原発再稼働に関する「ヤラせ」メール問題。
 生放送番組に再稼働支持の意見メールを送るように関係会社の社員に指示していた出来事。
 この報道に接する度に、違和感を覚えるのはぼくだけでしょうか。

 その昔、寺山修司という人は、自分の劇団の評価と集客率を上げるため(と、ぼくは解釈していますが)、劇団員にはがきを買わせて劇団の名前を書かせ、演劇専門雑誌の人気投票に応募させていたと聞いたことがあります。
 当時は小劇場アングラブームで、唐十郎をはじめ(こことの殴り込み騒動は殊に有名)多数のライバル劇団に差を付けることに必死だったのでしょう。
 いつも人気ランキングの上位にあったそうです。
 九州電力の玄海原発の再稼働を目指して、視聴者参加番組にメールを送り込む。
 それで企業が潤うのだとしたら、経営陣としては市場原理主義に根差した素晴らしい経営努力です。
 まだどこにも発表はしていませんが、ぼくがこの夏にフランスの原発の現場を取材したときのこと。
 九州電力が世界第2位の原発大国フランスの地元住民を起用して「原発大好き!」などと叫ばせる原発推進のPRのコマーシャルまで撮影していたことを知りました。
 それほどまでに企業努力を惜しまない会社なのです。
 演劇と原発とでは次元が違う、という声も聞こえてきそうですが、昔から一般公募、市民参加型のアンケート意見聴取では、こうした当事者が意見を寄せることはあり得ることで、当事者が参加してはいけないなんて決まりも法律もないはずです。
 むしろ、安易に顔の見えない不特定多数の善意を信じて、こんな旧態然とした手法を用いた番組制作サイドに問題があるのだと思います。
 このケーブルテレビの番組制作を主催したのは、経済産業省なのだそうですが、わざわざこんな隙を与えるような手法を用いた生放送番組で、いったい何をしたかったのでしょうか。
 ちょっと不可解ですね。
 それでいて「ヤラせ」発覚後に、経済産業大臣が目くじらを立てているのですから、おかしな話です。

 同じことは、アマゾンのサイトでも言えます。
 カスタマーレビューを覗いていると、頓珍漢なことを書き込んでいる人もいれば、悪意に満ちたものや、必要以上に持ち上げている論評を目にすることがあります。
 ある宗教団体が教祖さまの著した本を多数の信者で買い漁ったり、みんなで高評価を付ければ、それはアマゾンでも上位にランキングされますね。
 逆に、教祖さまを攻撃する本を、徹底的に貶めることもできるわけです。
 果たして、不特定多数参加型の評価基準をどこまで信じていいものか。

 森達也という人は、講談社ノンフィクション賞の授賞式の挨拶で、ぼくたちの行った抗議に触れて、
「これによってアマゾンの順位が500位くらい上がった」
 と、笑って言い放ち、会場の笑いを誘ったそうです。
 そして、こうも発言しているのです。
「批判には、全部反論できる!」

 あれから2か月近くが経とうとしています。
 ですが、森達也氏は一向に反論をしようともしない。
 したくてもできないのでしょう。(ですから、「全部反論できる」なんて、またしても嘘を付いたことになります。)
 沈黙を貫いて時間が過ぎ去るのを待つ姿勢なのでしょう。
 あの時と同じです。
 米原万里さんに「破廉恥」と一言で酷評された『下山事件 シモヤマケース』の証言の捏造が発覚した、あの時と。

 少しは、麻原章晃こと松本智津夫死刑囚の気持ちがわかったのではないでしょうか。
 無罪だと主張しながら、裁判が続くに従って、自分の犯した罪が白日の下に曝されていく。それに反証できなくて、黙り込んでいった麻原死刑囚。
 森達也氏の姿勢は、これにそっくりですね。

 賞を与えてしまった講談社も抗議を黙殺して通すようです。
「進んでしまった時計の針は、もとには戻せないんだよ」
 ある編集者が零していた言葉です。
 後悔しても、与えてしまった賞は、取り消すことができない、という意味です。
「でも、そうして自ら自社の賞の社会的評価を落としていく。価値を貶めていく。そうやって滅びていく。だから、黙ってみていればそれでいいんだよ」
 他社の編集者が、ぼくの憤りを前に、教えてくれたことです。
 時計の針が進むのといっしょに、積み重ねてきたはずの歴史。
 過去の講談社ノンフィクション賞の受賞作には優れた作品もあったはずなのですが、もはやそうしたものの価値観まで否定してしまった。
 それを黙ってやり過ごそうとすることの恐ろしさ。

 村上春樹さんの書いた小説に『沈黙』という短編があります。
 九州電力のヤラせメール事件、森達也氏の沈黙、講談社の黙殺の現実を眺めていて、この小説のことを思い出しました。(以前にも、村上さんの短編小説を引き合いに出していて、頭がそっちに向かったのかもしれませんが。)
 九州電力のヤラせメールも、佐賀県知事が「経済界には再稼働を容認する意見があるが、表に出ない」「こうした機会を利用して声を出すことも必要だ」と発言したことにはじまるそうです。
 沈黙とその背後に潜む混沌とした顔の見えない大衆の恐ろしさ。
 沈黙の持つ意味が見える者と見えない者との違い。
 この短編小説を一読すれば、いろんなことに気付かされます。
 最初にこの小説を読んだときには、ぼくも目が醒めたような気分になったことを覚えています。
 決して難しい小説でもありません。
 全国学校図書館協議会というところが集団読書テキストとして、薄い小冊子の単価193円で販売しています。学校の授業で用いられる教材になっているものですから、難しくはないはずです。
 およそ、その笑いが失笑であったことを祈るばかりですが、「アマゾンの順位が上がった」と豪語する森氏の言葉に、その会場に居合わせて笑ってみせた人たちには、是非読んで欲しいものです。
 それと、一般視聴者参加型の安易な番組作りに精通した人たちにも。

 そして、二十歳を超えた大人がこの作品を読んだあとには、きっとビールが飲みたくなるはずです。


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オウム的組織論

 講談社は、ぼくらが9月1日に行った抗議について、マスコミ各社の取材に、「選考は公正を期しており、選考委員から『授賞相当の作品』と評価をいただいている」とコメントするに留まっています。

 朝日新聞(asahi.com)  産経新聞(MSN産経ニュース)  Yahoo!ニュース(週刊文春)

 講談社といってもとても大きな会社です。
 ノンフィクションだけを売り物にしている出版社ではありません。
 実際に講談社が発行する「週刊現代」にも、つい最近までぼくも記事を寄稿していました。この部署には、目利きの優秀な方たちもいらしたはずなのですが……。
 忙しくて、いちいち他の部署のこと、専門外、職務外のことまで構ってはいられないのが実情なのでしょう。

 だけど、同じ講談社が刊行している『現代実用辞典』(第二版2010年2月一日第17印)を引いてみると、

 ノンフィクション 創作をまじえない、事実そのままのもの。記録文学、紀行文、記録映画など。 ⇔フィクション                (657ページ 上段)

 と、あります。
 いったい、どっちを信用していいのやら……。

 オウム真理教でも、数々の殺人事件を教団が引き起こしたものだとは知らなかった、信じられなかった、という一般信者が多かったことを思い出します。
「虫も殺してはならない」と説かれていた教団が人を殺すなんて……。
「事実そのままのもの」と説かれていたノンフィクションが出鱈目だったなんて……。
 いったい、どちらが組織の本性だったのでしょう。

 講談社が『A3』に賞を与えてしまった首謀者は〝22階〟と聞き及んでいます。
 文京区・音羽に聳え立つ講談社社屋タワーの22階。学芸局と呼ばれるノンフィクションの出版物を担当する部署。
 ここを中心に社内選考委員の29名が候補作を6冊に絞り込んで、最終的な選考会に諮るのだそうです。
 社内選考では「『A3』はノンフィクションではない」という意見もあったそうです。
 ところが、最終的には多数決によって候補として残っていったそうです。
 なんという素晴らしき衆愚政治の組織体。
 中味については、まったく検証しないのでしょうか。
 こんなに嘘ばっかりなのに。
 それで「選考は公正を期している」といってしまうのです。

 もっとも、同じ〝22階〟から発行される「g2」にも明らかな嘘が掲載されています。
 9月5日発行「g2」vol.8の167ページ。森達也氏の「受賞のことば」。
 地下鉄サリン事件の実行犯として、死刑判決を受けた林泰男死刑囚からの手紙を引用しながら、こう書き連ねています。
【地下鉄サリン事件が起きる二日前の深夜、林郁夫を部屋に呼んだ村井秀夫幹部(故人)はサリン散布を命じながら、「これは……だからね」と言ったという。この時に村井は、視線を階上に送るかのような仕草をした。これを見た林は、この指示は麻原彰晃からのワークであることを認識した。この証言は当時、とても大きく報道された。
 裁判においても麻原の共同共謀正犯を裏付ける重要な要素となったこの証言が虚偽であるかも知れないと記述した理由を林泰男は「部屋の位置が違う」と書いていた。事実だった。当時の麻原の部屋は第6サティアンの一階であり、村井がサリン散布を指示した部屋は三階だ。ならば「これは……だからね」と意味はまったく変わる可能性がある。
 でも法廷もメディアも、そして(僕も含めて)多くの人が、「……」は「(階上にいる)麻原の指示」と示すと思い込んでいた。その程度の検証や認識すら怠っていた。
 結局はこの程度の裁判だった。でもこの程度の裁判によって、戦後最大級と形容された事件の首謀者とされる男が裁かれた。謎や疑問は何も解明されていない】

 ……って、アホか。

 林郁夫証言の「これは……だからね」の指示場面については、麻原公判でも弁護人から執拗に突っ込まれていました。
 林郁夫自身の法廷でも、自身の弁護人からもこのあたりのことを尋問されています。
 その度に林郁夫は、建物の構造のことではなく、当時「正大師」とよばれる最高位にあった村井秀夫幹部の上の地位にいるのは教祖でしかなく、それを示して「上からの指示」を暗に伝えたものだと理解した、と繰り返し証言しています。
 それよりも、地下鉄サリン事件の裁判においてこの証言が重要だったのは、この指示伝達の場面には、林郁夫の他に地下鉄にサリンを撒くことになる廣瀬健一や横山真人、それに林泰男も同席していたことです。それなのに、林郁夫だけが「これは……だからね」と村井が動作で示唆したと言っている。林郁夫の語っていることは正しいのか、事件全体にまで及んで証言の信用性が問われたからです。このポイントを共犯者の弁護人たちが見逃すはずもありません。
 だから、あちらこちらの法廷でもこの審議はつくされています。
 「法廷もメディアも、そして(僕も含めて)多くの人が、「……」は「(階上にいる)麻原の指示」と示すと思い込んでいた」
 なんて大嘘。勘違いも甚だしいというか、自意識過剰というか、取材も碌にできていないというか……。
 それこそ「その程度の検証や認識」で裁判を批難するなんて……。
 まさに「結局はこの程度の本だった」のです。
 そこまでして麻原被告を擁護したいのでしょうか。
 こんな出鱈目を平気で掲載しているところをみると、「g2」に掲載される他の記事内容もこの程度の為体なのでしょう。
 とても信頼に足るものとは思えません。
 果たして、講談社の22階から出されるものすべてのものが信用に値するのでしょうか。
『「おもしろくて、ためになる」出版を』というのが講談社のモットーですが(講談社のHPにあります→講談社)、
「くだらなくて、害になる」本に賞を与えて、自らの出版物でも虚偽事実をまくしたてているのです。

 そして、こんなものに賞を与えて賞賛してしまった「謎や疑問は何も解明されていない」のです。

「g2」vol.8 167ページ  ※画像はクリックすると拡大します
受賞のことば


「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」
 死刑判決を受けた林泰男死刑囚の判決文には、そうした異例の記載があります(「抗議書」でも引用しています)。
 にも拘わらず、相変わらず手紙を送る相手を誤っているようですね。
(ひょっとしたら、この手紙の存在も森達也氏一流の捏造かも知れません。)

 オウム事件の本質は、弟子が教祖にそのすべてをあずけてしまったこと。
 自己の思考や善悪の判断もすべてを。

「だって、尊師がいいって言ったんだもん」「尊師がやれって言ったんだもの」

 そのひと言で自己の責任もすべて上司に転嫁してしまったこと。
 上役が正しいといったことがすべて。過ちを犯しても許される。罪を犯したこともまた罪でなくなる。嘘も真になる。

「選考は公正を期しており、選考委員から『授賞相当の作品』と評価をいただいている」
 その広報コメントにオウム的組織の本質が重なって見えるのは、8年もの歳月をオウム裁判の取材に費やしてきた、ぼくだけなのでしょうか。

「だって、選考委員がいいて言ったんだもん」「選考委員が(賞を)やれって言ったんだもの」

 あらためて選考委員の横顔を眺めてみると、

立花隆 『文藝春秋』巻頭エッセイで、文京区に現存する樋口一葉ゆかりの井戸を「消えた」と書いていたことが「週刊新潮」の記事で露見。同記事によると、立花氏が述べる文京区に取材をしたという事実もないとのこと。
 選考会の総括で『A3』について、
「講談社ノンフィクション賞が評価しなければ、なかなか社会的な評価は得られない  「決して」とは言わないまでも、なかなか評価が得られない本だったろうと思います」
 と、発言しているからには、もはや確信犯です。

重松清 平気で編集者やハイヤーのドライバーを殴る(伝聞情報ですが、確度の高い話です)。他人の取材ネタを平気で盗む(これについては、近日同氏の著作が発表されたところで白日のもとに曝されるでしょう)。※ヒント:プロフィールのぼくの写真

 以前にも触れましたが、この人たちがBPOの委員になっているのですから、これまた驚きです。
 メディア全体の問題ではないでしょうか。

BPO 放送倫理・番組向上機構/放送倫理検証委員会


野村進 拓殖大学でノンフィクション、文章の書き方について教えている教授。「抗議書」にある内容の通りの『A3』の問題点を指摘しながら、選考会で評価を一転。A=2点、B=1点、C=0点という評価基準で、
「僕もCから一つ上げてBに1ポイント上げます」
 として、評価にも値しないと批判していたはずだったものに、実評価を与えてしまうのですから。意気地がないというか……。
 自著で「非常識」とする行為が『A3』に顕著でありながら、賞を与えてしまうなんて異常です。まずは、嘘を書かないことから学生に教えてはどうでしょうか。
 まあ、ノンフィクション作家として、ご本人の書かれるものもこんなものなのでしょう。

中沢新一 「抗議書」に詳しい。中央大学教授。選考会では『A3』を一押し。その理由が、
「森さんが『A』を撮り始めたころから、僕も一緒に取材してきました。オウム真理教に関する彼の仕事の全体を見渡したとき、高い評価を与えるべきだろうと思います。
 僕自身は、ある時期からこの仕事に関する発言を封じ込められてしまいました。ジャーナリズムや司法は、とにかく大きな物語にオウムを収め、麻原を死刑にしてしまえという方向で進んできました。そんなふうにはいかないぞという点では、僕も森さんとまったく同じ考えです」
 ですって! この人も何を見ているのでしょうね。
 そもそも、「発言の封じ込め」というより干されていたのにはそれなりの理由があるからでしょ。
 因みに、『A』については、「テレビに干されたから映画にした」なんて喧伝していますが、それも嘘ですから。

 この人たちは、いずれも大学で教鞭をとる教育者です。
 未来を背負う若者たちに、いったい何を教えているのでしょうか。
 嘘をついてもいい、なんて教える教育者、大学教授なんて聞いたことがありません。
 教授として採用している大学の沽券にも関わるでしょう。

辺見じゅん 選考会で「麻原章晃のことがよくわかった」と発言。やれやれ、ぼくたちが「抗議書」で危惧していた通りのマインドコントロールに、見事にはまっていますね。大丈夫なのかしら? ……と、思っていたらこのブログを立ち上げた直後に他界してしまいました。亡くなった方を悪くいうつもりはありませんが、騙されたままあの世にいかれたのだとしたら(あの世があるのかぼくにはよくわかりませんが)、心許ないばかりです。

 この人たちが、嘘、ヤラせ、捏造、盗用、パクリ、取材不足、事実誤認、歪曲、およそノンフィクションとしては禁忌される事象のオンパレードの著作を「授賞相当」と判断しているのです。

 もはやノンフィクションの自殺です。

「およそ師を誤るほど不幸なことはない」
 林泰男判決の一文です。

 あの一連の事件から、いったいいまの日本は何を学んだのでしょうか。
 ただただ、虚しくなるばかりです。



破廉恥

 森達也という人をひと言で表す言葉はないかと探していたら、「破廉恥」という言葉を見つけました。
 見つけた、というのは、ぼくが思い当たったのではなくて、他の人が森達也氏のしでかしたことについて、「破廉恥」と形容していたのです。
 作家・ロシア語通訳家であった米原万里さん(06年没)が、そう指摘しています。
 米原さんは、当時連載していた「週刊文春」04年4月1日号の書評欄で、森達也氏の書いた『下山事件 シモヤマ・ケース』を絶賛しています。
 ところが、この著作には、事件の関係者が言ってもいないことを勝手に作り上げて、それが真実のように書き込んでいた、いわゆる「捏造」が下山事件の関係者(森氏のネタ元)の指摘で発覚。
 米原さんは、「週刊文春」05年9月15日号で、この人物の著作をとりあげながら、森氏のしでかしたことを『破廉恥な「証言の捏造」』とわざわざ書き込んでいます。

「週刊文春」2005年9月15日号  ※画像はすべてクリックすると拡大します
米原万里 書評

 因みに、ここに森氏といっしょに登場する諸永裕司という人物は、ぼくが記事にした取材内容について、ぼくの自宅にまで押しかけてきて、取材源を教えろ、と迫った過去のある、およそ常識を持たない人です。森氏の同類だと思っています。

 米原さんも、よほど下山事件が好きだったのか、それとも森氏のしたことが許せなかったのか、いずれにしても森氏の捏造を指摘する著作を取り上げてわざわざ「破廉恥」と書き込んでいるのですから、問題の大きさは認識していたはずです。
 このことは、連載をまとめた『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)のなかにも収録されています。

 もうこの時点で、森氏はそんなことをしでかしていたのです。

 しかもです。
 戦後の闇と呼ばれる下山事件を解明しようとするどころか、嘘で塗り固めて、より闇に葬り去ろうとしているのですから、事態は深刻です。
 後世の人間が事実をねじ曲げ、そしてさらに次世代へと誤った情報を伝えていく。
 破廉恥を飛び越して、悪質です。
 人間としても信用できないものです。
 その同じ人間が、オウム事件を題材にして、再び嘘の事実を書き込んで、後世にそれを伝えようとしている。
 それに賞を与えて絶賛してお墨付きを与えるのですから、罪は大きい。
 賞を与えた人たちも破廉恥極まりない。

 だいたい、森氏の書いた『A3』には恥ずかしい基本的な間違いが多すぎます。
 森氏は同著の中で、ずっと「VX」のことを「VXガス」と書いています。
 オウムが猛毒のVXを用いた事件をきちんとみれば分かることなのですが、いずれもジェル状のVXを被害者の首筋や頭に滴下して、そのうちの1件は誤って注射針を刺してしまったことから被害者を死亡させています。使ったのは気体のガスではありません。
 事件が発覚した当初は新聞もテレビも「VXガス」と書き飛ばしていたのですが、そのうち事件形態が明らかになるにつれ(おそらくは司法記者による検察取材で、検察が報道の間違いを指摘していたのでしょう)、早い時期から報道機関はすべて「VX」で統一されて報道されています。
 そんなオウム事件のイロハのイ、ABCのA、123の1にあたる基本も分かっていないなんて……。
 それでよくオウム事件どころか、報道の悪口まで書けたものです。
 本当に恥ずかしい……。

 選者のひとり野村進氏の著作『調べる技術・書く技術』(2008年4月 講談社現代新書)によると、ノンフィクションについて、

【かつては常識とされていた取材と執筆のルールが若い世代に受け継がれていないのではないかという危惧を覚えるようになった。インタビューを申し込んでおきながら遅刻をする。取材前の資料読みをきちんとこなしてきた形跡がない。無断でいきなり録音機器のスイッチを入れる。貸した資料をなかなか返却しない(ひどいものになると紛失する)。こちらが発言していない事柄を会話体で記すすでに公表されている事実を、さも自分が発見したかのように書く。掲載紙誌を送ってこない……。(中略)こうした振る舞いは、私がノンフィクションを書きはじめたころには、極めて非常識な行為であった】(同著9〜10ページ)

 と、記されています。

 もう、森達也という人は「こちらが発言していない事柄を会話体で記す」ことなんて、米原万里さんに指摘されているように、過去に犯していますし、「すでに公表されている事実を、さも自分が発見したかのように書く」ことなんて、『A3』に顕著です。
 いや、顕著どころか「さも自分が発見したかのように」書いた内容なんて、公判で争点となっていたり、すでに報道されたことばかりで、よく恥ずかしくもなく、こうしたことが書けたものだ、とむしろ関心してしまいます。
 例えば、

 地下鉄サリン事件の関連で浮上する「霞ヶ関アタッシュケース事件」(32ページ)
 松本死刑囚は拘置所内を車椅子で移動すること(183ページ)
 いわゆる「早川ノート」の存在と内容(407ページ)
 89年のオウムバッシング報道による宗教法人認可取り消しと翌年の総選挙への影響の懸念(432ページ)
 ボツリヌス菌採取の模様(434ページ)
 国松元警察庁長官の発言(496ページ)

 などについては、
 公判で明確なったり、既に報じられていることであって、森氏による発見ではありません。
 その中でも「A3」を通じて問題に挙げられる地下鉄サリン事件直前に中川がジフロ(サリンの中間生成物)を保管していた事実は降幡賢一氏『オウム法廷』に詳しいですし、
 「巫病」の指摘とそのエピソードは、藤田庄市さんが雑誌『世界』2004年4月号で初めて指摘し、同著『宗教事件の内側』(岩波書店、2008年10月)で詳しく伝えているところです。(このあたりのことは「抗議書」でも指摘しています。)

 むしろ、これをパクった、盗用したのではないか、という疑念すら浮かんできます。

 そんな著作にあえて賞を与えてしまうのですから、選者の見識も落ちぶれたものです。
 仮に、選者がオウム事件に関する知識に乏しかった、よく知らなかったとしても、同著作を一読すれば論理破綻すらおこしていることは見てとれます。

 例えば、教団が武装化するきっかけとなったとされる、90年総選挙に麻原被告が真理党を立ち上げて弟子たちと立候補して大敗したときのくだり。
 このことは判決でも認定されているところなのですが、『A3』では判決の内容が検察の主張を踏襲していることを批判し、こう論理を展開しています。

 検察は一九九六年五月二十三日の麻原法で、

 選挙敗北によって信者のあいだに生まれた動揺を鎮めるため、麻原は「国家権力が票をすり替えて真理党の当選を妨害したのだ」と説明し、さらに「合法的な救済はもう不可能であり、悪業を積み重ねた現代の人々をポアすることで救済する」として、無差別大量殺人を決意した。

 と述べている。
(中略)
 ところが第二二六回公判で、側近の一人だった杉浦茂は、総選挙敗北後の麻原の様子について、以下のように証言している。

 まず、選挙の開票が出たその夜ですけれども、富士山総本部に集まって慰労会みたいなものがありまして、(麻原は)そこでまず、惨敗、それは自分の力が足りなかったからで申し訳ないという感じの話がありました。(中略)……本当に申し訳ないという感じで言っていまして、……

 この証言からは、開票に不正があったと怒る雰囲気はないし、不正があったことにしようとの隠匿の気配もない。

『A3』430〜431ページ

 そう書き連ねて、検察の主張から、判決の内容までを意図的に批判しています。
 まあ、そう書けば「弟子の暴走論」にも帰結しやすいわけですね。
(そもそも、裁判を最後の判決公判のたった1回しか傍聴取材していない森氏が、第226回公判の詳細な証言をどこで知ったのか、疑問は残りますが……)

 ところが、です。
 あとになって麻原被告と弟子との関係を書き連ねた部分では、こんな記載をしているのです。

一九九八年十一月二十六日、早川公判に証人として出廷した大内利裕は、九〇年の総選挙で大敗したとき、麻原に「どうしようか」と相談されたと証言している。

「トップ当選すると予言していたのに最下位に終わり、どう取り繕うか、難しい問題だった。そのときには上祐もいたし私もいましたが、(相談に応じているうちに)いつの間にか票の入れ替え、それもフリーメイソンが自動的に票を書き換える機械を使って票の書き換えをしたことになっていた。(中略)予言が外れたとは言わない。ただ(認めなければいけない)結果があるので、そのときに一言、『どうしようか』とだけ言う。予言が外れると、われわれが自分の心でグルをかばってしまう」

『A3』474ページ

 これじゃあ、最初に自分が否定したことと、あとから持ち出した内容が食い違ってしまう。
 むしろ、検察の主張の正しさを裏付けちゃっています。
 それどころか、教祖と弟子が互いに補完しながら教団運営があったことはわかりますが、「弟子の暴走」とまでは言えませんね。
 弟子に相談を持ちかけたとしても、最終的な判断、決定は教祖が行っていたことに変わりはありません。
 眼力がない、というか……。
 だいたい、たったの一度しか裁判を傍聴していないと同著で明言する森氏が、よくここまで詳細に証言内容を記載できたものです。……って、あれ?

 あれ!?……あれれれれ!?

 これって、ひょっとして、ひょっとすると、もしや……。

 そう思って、ぼくの自著『オウム裁判傍笑記』をめくり返してみました。
 そう、森氏が『A3』の中で再三再四批判して攻撃を仕掛けてきたぼくの著作です。

 ……ああ、やっぱり!

 百聞は一件にしかず。
 下記の画像を見比べてみてください。

『A3』474ページ                   ここに注目!▼
A3 P474ー475

『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)228ページ      ここに注目!▼
オウム裁判傍笑記 P228


 『A3』の巻末に「参考文献」として『オウム裁判傍笑記』の記載はありますが、この引用箇所においては見ての通り、明らかに出典の記載はありません。
 他のページでは、引用箇所に出典を明記しているのに、です。

 これは明らかなパクリ、盗用です。
 こんなことがノンフィクションに許されていいのでしょうか。

 嘘つきは泥棒のはじまり、とは言いますが、嘘つきだからこんな盗用もできたのでしょう。

 酷いものです。
 他人の褌で相撲をとって、その他人を嘘、偽りで攻撃するのですから。褌を借りたことも隠匿してしまう。
 羞恥心の欠片もありませんね。

とんがり焼

 鳥なき里の蝙蝠  と自分で綴ってみて、ふっと思い当たるところがあり、書棚を漁ってみました。

 あった、あった……。

 村上春樹さんの短編小説『とんがり焼の盛衰』。本当に短い小説です。
 新潮社より刊行された『めくらやなぎと眠る女』という村上春樹短編集の中に入っています。
 短編集の「イントロダクション」には、どうしてこの作品を書いたのか、著者本人のコメントもあって、彼が小説家としてデビューしたときに文壇に対して抱いた印象を寓話化したものだ、としています。
 あらためて読み返してみると、そこに登場してくる目の潰れた「とんがり鴉さま」がなんとも……。
 目が見えなければ、蝙蝠も鳥に化けてしまいますよね。
 余談ですが、ぼくはこの短編集の中に収められた『品川猿』という作品が気に入っています。個人の経験と重なるところもあって、好きな小説です。
 はじめて読んだのは『東京奇譚集』というこれまた新潮社から刊行された短編集の書き下ろしでしたが、好きな女の子にこの『東京奇譚集』をプレゼントしたこともあります。

 数年前に芥川賞が「該当作なし」とされたときに、選者のひとりだった池澤夏樹氏が芥川賞の過去を振り返って、村上春樹さんに賞を出せなかったことを憂いています。

 与えるべき作品に賞を与えなかったこと、
 与えてはいけない作品に賞を与えてしまったこと、

 どちらが罪深いのでしょうか。

 こうしてぼくもネットを利用してみて、あらためて思うのですが、今の時代は当たり前のようにいろんなものが等質化してきている。
 ネットによっていろんな情報が共有され、同時に情報の発信者となれる。
 ほとんどタイムラグもない。
『食料植民地ニッポン』という本があります。ぼくの著した本です。
 日本の食料事情や食料問題をテーマに世界のあちらこちらをまわって取材しながら、1冊にまとめたものです。
 中国や東南アジア、遠くは南米のチリまで行って食の現場を見て、原稿を書いて、雑誌に掲載して、1冊にまとまるまでには、時間もお金もかかりました。
 そしてようやくぼくの本が書店に並ぶ……となった直前に、中国毒ギョーザ事件が起きてしまいました。
 たちまち、テレビや新聞、雑誌は本件からはじまって、
 日本のおかれた食料自給率40%の実情を報じはじめました。
 消費者心理もくすぐって、情報への需要もありました。
 メディアによって報じられた内容は、たちまちネット上にも転載され、多くの人が好きなときにアクセスできるようになりました。
 そこへぼくの本が登場したとき、ぼくが言われたことは、
「そんなこと、もう知ってるよ」でした。
 ぼくが蓄積してきて一気に吐き出そうとしていた情報が、いつの間にか時勢に抜かれて、なにも新しいものではなくなっていました。
 情報の共有が等質化を産んだこと実感しました。
 のちに本が書店に並んだあとでも、その本に書かれたことが、ネット上に転載されます。
 出所の明らかでないネット上の情報のみを得た人は、それからぼくの本を見たときに同じことを言うのです。
「そんなこと、もう知ってるよ」
 現場を歩いて掘り起こした取材者として、あるいは文字にまとめた作家として自分に返ってくるものがない。
 本の世界でもたちまち食料問題をテーマにした出版が相継ぎ、その中にぼくの著作物も埋没していきます。
 いまでは、ネットの情報を頼りに本を書き連ねる人もいるくらいです。

 そうした愚痴をこぼしたところで、ある編集者から、
「あなたにしか書けないものを書かないからいけない」
 と、叱咤された記憶があります。
 その人にしか書けないものを書く、それが作家なのだ、と。
 だとしたら、作家に求められるもの、特にノンフィクションに求められるものは、今日あるような情報ツールを持たなかった10年前、20年前と明らかに変わって来ているはずです。
 紙媒体そのものも、ネット社会に席巻されつつあり、同時にマーケットも縮小してきているのですから、状況は厳しさを増すばかり。
 先人たちにはあり得た成功を、いまのこの世界に求めることに疑問を持ったことも確かです。

 そんな時代に「これだ!」という作品に巡り会えない。
 芥川賞に、これだ!といえるものがなくて「該当作なし」となってしまうように、面白いものが見あたらない。
 均等化、等質化する社会。情報共有と閉塞感。
 そんな中に目立つものが現れた。
 いままでに一律するように報じられた事実を真っ向から裏切るもの。
 それは面白いに決まっている。
 だってそれは嘘なのだから。
 これだけ情報が行き渡った中に嘘が目立つのは当たり前です。
 そこにみんな食いついてしまった。
 目立つだけで賞賛してしまった。

 鳥ばっかりのなかにおかしな飛び方をする蝙蝠がやって来たら、それは目立ちますよね。
 でも蝙蝠は鳥ではないのです。

 ぼくが好きな女の子に、ぼくの好きな小説を読んで欲しくてプレゼントしたことは、彼女にとって押しつけがましく迷惑だったかもしれません。(でも、きっと彼女はその小説を気に入ってくれたと思います。だって、あとでその女の子は小説の感想をぼくに語ってくれましたから。)
 それと、賞を与えて箔付けして社会に押しつける行為とは、まったく違います。
 しかも、それが嘘なのですから。

 これはとっても怖いことです。
 良識で均質化するものの閉塞感を打ち破ろうと、いつの間にか虚飾と妄言を受け入れ、これを奉ってしまった。
 異質なものを信奉するものがさらに増えて、嘘が真になる。
 そうして世の中が変質していく。
 良識を失って、正常な判断ができなくなる。
 すべてが暴走をはじめる。
 行き詰まりを打破しようとして支持したものが、実は似非者であって、人類に不幸をもたらしたことは歴史の中に見ることができるでしょう。

 そのなかで、もっとも恐ろしく忌むべきものがあるとすれば、
 それは自分の良心に誠実でない人たちだとぼくは思います。

プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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