スギ花粉と放射性セシウムについて

 現在発売中の「週刊文春」に、
 スギ花粉と放射性セシウムについて書いています。

 本文には書かなかったのですが、
 ちょっと気になることがあるので、触れておきます。

 スギ花粉と放射性物質についての取材中に気が付いたのですが、
 今年11月4日に、
 テレビ朝日の「モーニングバード」という番組が、
 東京・奥多摩のスギ花粉を独自に採取し、検査したところ、
 1キログラムあたり93.8ベクレルの放射性セシウムを検出した、
 と、報じていました。
 ですが、これは誤り。
 番組でサンプリングしていたのは、雄花です。
 雄花の中に花粉ができますが、実際に飛び散る花粉とは違います。
 11月くらいに花粉は形成されるとしても、冬の間に雄花の中で熟成してから、2月くらいから花粉が飛散するのです。
 だから、実際に飛び散る状態にならないと、花粉にどれだけ放射性セシウムが混入されるかわからないし、雄花といっしょに細かく潰して検査してしまっては、実は雄花の本体に放射性セシウムがついているだけで、花粉にはまったくセシウムが含有されていない可能性も出てきます。
 正確性を欠く検証です。
 しかもこれを「花粉」と断言しているのですから、ちょっと問題です。
 番組では一応「人体に影響はない」としていましたが、熟成期間をおくとひょっとしたら雄花以上に花粉に高濃度の放射性物質が溜まってしまう可能性だって否定できないのです。
 やっぱり問題ではないでしょうか。

 テレビ朝日の番組で、この〝花粉〟の計測分析を行ったのは、首都大学東京の福士政広教授でした。

 福士政広教授と言えば、
 NHKの朝の番組「あさイチ」でも、日本各地の家庭の食事を分析して、
「放射性物質が検出された」と報じたところ、
 のちにこれが正確ではなかったことが判明し、同番組内で訂正する騒ぎを起こしています。
 大丈夫なのでしょうか。

 NHKでは、12月15日に検証番組を放送する準備を進めているようですが、
 テレビ朝日もちゃんと再検証したほうがいいように思います。


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人を傷つけるということ

 個人的なことですが、とっても不快なことがあったので、書きます。
 ……そう言い放ってしまうと、まるでブログを自分の不平不満の捌け口に利用しているように受け取られてしまいそうですが、
 でも、どうして自分が不快な気持ちになったのか、その理由を掘り下げてみると、それはそのまま、人を傷つけるとはどういうことなのか、あらためて考えさせられることにもなりましたし、
 また、いろんな人に考えて欲しいと思うところもあり、ありのままを書いてみようと思います。
 よかったら、みなさんも考えてみてください。

 今週の水曜日、11月最後の日の朝のことになります。
 東京地方裁判所であるおばさんから声をかけられました。
 このおばさん、自分にとって気に食わないことがあると、仕事を共にする相手であろうと、共闘する仲間であろうと、とにかく無視をはじめる。
 いわゆる〝シカト〟を決め込んで、口さえも聞かなくなる。
 それで仕事上に支障がでると、「向こうが悪い」と関係先に伝えて、相手を干しにかかる。
 酷いときなると、あからさまに「あいつを外して」と言い出す。
 それだけならまだしも、個別な取材対象者との会話中にも、強引に我がもの顔で割り入ってきて妨害する。現場取材関係者の間で奇妙な仲間意識、連帯を作り上げて、その中で村八分の態勢をつくる。他人の書いたネタや内容をパクる(実際に複数の新聞記者、出版関係の方々から「おまえの書いたものとそっくりなことを書き連ねている」と指摘されました)。そういうことも、平気で出来る人です。

 少し前に、元プロ野球選手の張本勲さんと衝突して、番組のコメンテーターから外されたことを騒ぎ立て、新聞記事にもなった人ですが、そもそもこのおばさんからして、平然とそんなことをやってのけていたのですから、笑い話です。
 はたまた、NHKの教育番組にも出演して、いじめ問題を語っている様には、呆れて目もあてられませんでした。

 このおばさんによって虐げられた人は、少なくないはずです。
 ぼくもそのひとりだと、ぼくは認識しています。
 一時期は顔を見るのも嫌な存在でしたが、どうしても現場で顔を見なければならない事情もあります。
 我慢も必要でした。我慢をするうち、せめて自分のやりたいことを妨害されたり、こちらのカテゴリーに入って来なければそれでいい、と思うようになりました。
 そもそも向こうが〝無視〟をはじめて、存在を否定したことですから、ぼくがどこでどう立ち振る舞おうと関係はありません。
 放っておいてくれればいいだけのこと。
 ただし、彼女から受けた仕打ちは忘れたわけではありません。

 そんな次第で、もう10年以上も言葉を交わしたことすらありませんでした。

 それが水曜日の朝。
 東京地方裁判所で時間を持て余していると、ふっと声をかけてくる人がいた。
 それがあのおばさんでした。
 まるで旧知のお友達のように、「大丈夫?」と一言。
 信じられませんでした。
 と、同時になにが「大丈夫」なのか、意味がわかりませんでした。
 そして、その瞬間から、異様な不快感に襲われました。
 どうして、あんなに不快になったのか?   あとで振り返ってみても、恐ろしいまでに明確に思い浮かべることのできる不快感。
 それは、忘れかけていた過去の苦い体験が、彼女のその行為によってぼくの中に甦ったから、という単純なものではありませんでした。
 かつてないほどの異常な感覚。そして、驚き。
 それもどこか乾いた感情でした。まるで、大嫌いな食べ物を大量にテーブルに並べられたような気持ち。
 その理由は、自分でもすぐにわかりました。
 どうして、このおばさんはこの期に及んで平然と声をかけてくるのか、その気持ちを考え、「大丈夫?」の言葉の意味を考えたときに、猛烈な不愉快がぼくを襲ったのです。

 まず、どういう心理でこのおばさんはぼくに声をかけたのでしょうか。
 よもや、自分のしでかしたことを忘れたはずはないだろう、と思いました。人を無視する、遠ざける、疎外するという行為にすらエネルギーは必要です。それで、もう10年以上も現場で顔を合わせても、素知らぬ顔をしてきたのですから。
 では、自分の仕掛けた行為を他所に、どうしていまさらながらに声をかけられるのか?
 それは、自分のした行為は許されるものだ、と彼女が認識しているのだと推測しました。
 あるいは、自分のしでかした行為を忘れてしまっても構わない。
 人を傷つける罪を犯したとしても(現実に人を傷つけることが目的でシカトをしたのでしょう)、それは私だったら許される。
 あるいは、この男だったら(つまり、ぼくだったら)、許してくれる。私のことを受け入れてくれる。もう随分と昔のことだから、忘れている。
 そんなふうに思ったのでしょう。
 何かを誤魔化すようにして、旧知の仲間のように振る舞いたい、そう願ったのかも知れません。
 ですが、殺された人間は、そう簡単に生き返るものではありません。
 黙殺という、人の存在を否定する行為。それから時間を経て、都合よく生き返らせる。取材現場の仲間として仲良く会話の交わせる相手として、自分のカテゴリーに蘇らせる。まるで、何事もなかったかのように。
 人はそんな簡単なものではありません。
 完全にこのおばさんは、ぼくを侮っていました。
 相手の気持ちなど、考えていないのです。
 1度ならず2度までも、人を蔑ろにする行為だと思いました。
 まるで、どこかの教祖様のように、人は簡単に殺せて、簡単に転生できる、生殺与奪の特別な能力が自分に携わっている、とでも考えているようでした。
 実際にその意向は「大丈夫?」の一言の中に現れていました。
 この日、傍聴取材したい裁判があって、だけどその傍聴のためには傍聴券を取得することが必要でした。その抽選にぼくは並んでしました。競争率は3〜4倍ほどあったはずです。
 どうやら、その抽選にぼくが外れたことを心配して声をかけて来たのでしょう。
「(傍聴券の取得は)大丈夫(だった)?」という意味で。
 おばさんも、ぼくと同じ裁判を傍聴取材するつもりだったようです。そのおばさんには、大手メディアがバックアップについていて、抽選漏れのないように手配しているようでした。
 だから、確実に傍聴券は手に入る。
 困っている人がいたら、分けてあげてもいい。
 そんな憐れみだったのか、あるいは恩を売ることで旧交を復活させようとでも思ったのか、どちらにしろ自分のバックグランドを利用したもの言いでした。
 仮に憐れみだとしても、そこまでぼくが追い詰められた存在、困窮している輩、救いを必要とする憐れな人間に映ったのは、いったい彼女のどんな心理が働いたからなのでしょうか。
 彼女からすれば、そんなにぼくは惨めな存在なのでしょうか。
 惨めになったとしたら、何が原因なのでしょう。
 最初から蔑んで見ている。あるいは声をかけてあげることで相手は喜ぶ。
 おばさんが何を思ってぼくに声をかけてきたのか、想像するに付け、不快になって来ました。
 腹が立つ、というものではありませんでした。
 本当に不快だったのです。近寄ってきて欲しくもなかった。アレルギーを引き起こす食べ物を、無理強いされたような感覚。できれば、その存在すら否定したい気持ち。
 そして、この時にもっとも不快だったことは、声をかけられたことに対して、返事をしなければならなかったことでした。
 正直、最初は無視していようか、とも思いました。
 ですが、それではこのおばさんとおなじ立場の存在になってしまう。
 それは嫌でした。
 だから、どうしても返事をしなければならないことになる。
 だけど、このおばさんと会話をすることすら、ぼくは御免被りたかったのです。それすら、向こうの仕掛けてきた黙殺という行為に基因するものです。
 どうして、このおばさんはそうやって人を追い詰めるのか。
 自己の欺瞞だけで、どうして二重三重に人を傷つけることができるのか。
 その鈍磨した感覚に、異様な不快感を覚えたのでした。
 それは嫌悪感となって、知らず知らずのうちにぼくの表情にも表れたのでしょう。そこまで大人にはなれませんでした。
 ぼくの返答に(ぼくは「大丈夫ですから」と言いつつ、知らず知らずに右手を振っていました)、おばさんはみるみる顔を曇らせ「あ、そう」と言ったきり、その場から去ってしまいました。
 その態度を見て、いったいこのおばさんはぼくに何を期待していたのか、ますますわからなくなりました。
 感覚の鈍磨、個人の中の欺瞞が、本当に人を傷つけるのだと思いました。
 もっとも、思慮深い人でしたら、軽はずみに人を黙殺したりはしないはずです。
 もうこんなことはやめて欲しいと思いました。
 本当に怒りや悲しみといった人間の情動の理解できない人だと思いました。
 いや、仮に理解できているのだとしても、自分に向かった感情だけが、閉塞的に自己完結できているのだと思いました。
 それで、周りからチヤホヤされながら、裁判所の取材現場で傍若無人に振る舞っても、平然と生きていけるのですから、幸せなのでしょう。
 そうして出来上がる感覚の鈍さが、羨ましくもありました。

 さて、このおばさん。
 この日は、いったい何の裁判傍聴だったかというと、
 なんと「小沢一郎こと小澤一郎」(裁判所の表示には正式にそう記載されています)の刑事裁判。
 それも傍聴席の最前列、被告人の位置にもっとも近いところに座っていました。
 小沢一郎という人も、国会議員であろうと、新聞記者であろうと、それまで昵懇であった仲を、あるときから突然〝無視〟を決め込んで、自分から遠ざけてしまうことで知られています。
 それで傷つく人も少なくありません(そういう人から話も聞きました)。
 〝類は友を呼ぶ〟とはよく言ったものだ、と感心しました。
 と、同時に、その二人のコントラストを眺めながら、ぼくは思いました。

 良きにつけ悪しきにつけ、
 人を傷づけた、信念を持って攻撃したという自覚があるのならば、それは一生背負い続けていくべきなのだろう、

   と。

 本当に心に重くのしかかる不快な出来事でした。


プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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