死刑と死刑

 今朝3人の死刑が執行されました。

 なんという因果でしょうか。

 よりにもよって、
 本日発売の『週刊文春』にて、
 ぼくは「死刑」について寄稿しています。
 日本の死刑は「ロングドロップ方式」といって、
 ロープを首に巻いて1メートル以上を一気に落下させることで、
 頸椎が骨折し、延髄が破壊されて、瞬時に死に至る……
 なんて具体的なことも書いていたのですが、

 3人のうちのひとり、
 下関通り魔事件の上部康明死刑囚は、
 裁判を傍聴して、両親にも会いにいきましたし、
 また被害者遺族の方にもお話を伺った取材経験があります。
 姿を見て、声を聞いて、死刑を言い渡された人間が、
 実際に死刑を執行されたとなると、
 どこか複雑な心境になるものです。

「死刑に処せられる者は、それに値する罪を犯した者である。執行に伴う対象の精神的・肉体的苦痛は当然甘受すべきである」
 現行の絞首刑は憲法36条に定められた残虐な刑にあたる、
 と主張した大阪此花区パチンコ店放火殺人事件における、
 昨年10月31日の裁判員裁判の判決の一文です。

 是非、この日に読んで欲しい記事です。


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『WRITER'S TEARS』

 いろんなことや、いろんな人があるものですが、
 いくら言葉を発しても、相手に伝わらないこともあれば、伝わらない人もいる(あえて誰とは言いませんが……)。
 その一方で、言葉にできないこともあるもどかしさ。モノ書きのはずなのに。

 そんな時に、
 『WRITER’S TEARS』(作家の涙)に出逢ったので、
 そのエピソードについて触れてみます。
 とても個人的なことで、情けない話なのですが、どうかご容赦を。

 2日徹夜して、それでも満足に原稿をまとめられない。
 もどかしいどころか情けない気持ちを抱えて、
 雨の日曜日の深夜、レコードでジャズを聴かせてくれる荒木町のバーを訪ねました。

 ほんとうに個人的なことなのですが、
 ぼくには仲の良い女の子がいました。
 不思議なのですが、いっしょにいるととても心地がいい。
 話しをしたり、いっしょにご飯を食べていてとても楽しい。
 だから、ついつい自分のことをなんでもしゃべっちゃう。
 恋愛感情なんて抱いた覚えはないのですが、
 いっしょに笑っていたいと思う女の子。
 きっと、周りの人たちにも、とても仲のいいふたりに見えたことだと思います。
 実際に、よくそう言われました。

 気難しいぼくには珍しい存在でした。
 いっしょに笑っていられることが、とても楽しかった。
 だから、ふたりの関係もとても大切にしていたつもりです。

 その彼女に、
 人間として、男として、とても我慢のならないことをされてしまいました。
 先週のことです。
 詳細は、差し控えますが、
 有り体にいえば、男として女に利用された、というところでしょうか。
 目の前で展開される現実に、心が踏みにじられる思いがしました。
 彼女はそれが許される、あるいは、ぼくだから許してもらえる、と思ったのかもしれません。
 だったら事前にひと言あれば、また違ったのかも知れませんが、
 ぼくの心に付け入るように、便利に使われたこと、
 ぼくの期待を都合よく裏切られたことに、
 自尊心や男としてのプライドも深く傷つきました。

 ぼくは怒りました。そして、責めました。
 筋道を立てて、おかしいじゃないか、と説明もしました。
 そうすると彼女は、開き直ってしまいました。
 きちんと謝るのではなく、あなたに甘えた私がバカでした、と言わんばかりに、言い訳をする。(それもすべて携帯メールで、喧嘩越しの文面でした。)
 傍から見ても、本当に失礼なことを彼女はしたのだとぼくは思っていますが、
 面と向かってそれを説いたところで、もう彼女は受け入れないでしょう。
 しかも、そのことでぼくから距離を置くようになった。
 それが悔しいやら、哀しいやら、腹立たしいやら。
 だけど、自分を虐げられるような彼女のわがままを許すこともできない。

 複雑な感情に悩まされました。
 そのことばかりに意識がいってしまうようになりました。

 数年前に、新橋の「耳かき専門店」の女性店員が客にストーカー行為を受けて、実家に住む祖母といっしょに殺されてしまった、という事件がありました。
 裁判員裁判がはじまって最初に死刑求刑がなされた事件です。
 判決は、被告人が店に1年に200万円もつぎ込んで、約1年以上も女性店員と良好な関係があったのに、急に店への出入りが禁じられ、疎んじられて、抑鬱状態が悪化してしまった上での犯行であることを情状として、極刑を避けていますが、
 危険なことに、なんだかその被告人の気持ちに急激に近づいていくような気がしてしまいました。

 この抑鬱的な気持ちはなんなのか。
 自分の正当性が受け入れられない悔しさなのか。
 関係が失われた悲しさなのか。
 裏切られたことへの怒りなのか。
 再びあの心地のよい関係を取り戻したい未練なのか。
 でもその関係は、簡単に遮断できるほど、
 彼女にとって軽い存在だったのか。
 弄ばれているのか、蔑まされているのか……。
 怒りを相手にぶつけたい衝動と、
 こちらから折れて連絡をとることでもない、とる必要のあることではないという意地。
 論破して平伏させたい支配欲と
 文字にして彼女に諭したところで、
 すれ違うばかりで彼女には伝わらないだろう、諦観。
 思い通りにならないストレス。
 ぼく自身も何をいちばん伝えたいのか、整理できない複雑な感情。
 困惑と疲労。
 頭から消したくても取り憑かれたようにすぐに甦る思考。

 せめて、レコードの音質でジャズを聴いて、心を落ち着かせられたら……。
 雨の日曜日の深夜。
 そうして訪ねたバーにたった独り。

 ふっとバーのマスターが寄ってきて、カウンター越しに、
「こんなボトルを見つけたのですが……」
 そういって1本のウィスキーを見せてくれました。
 それが、

『WRITER’S TEARS』

 初めてみました。そんなウィスキーがあることも知りませんでした。
 知ってか知らずか、絶妙のタイミングに、ぼくは声を挙げて笑ってしまいました。
 そして、その瞬間に、何かが弾けたように、ぼくの気持ちが軽くなりました。

 涙というのは不思議です。
 嬉しくて流れる涙もあれば、
 悔しくて零れる涙もある。
 怒りでも、悲しみでも、涙は流れるし、
 他人に同情しても、自分を憐れんでも涙は溢れてくる。
 楽しかった昔を懐かしんでも、
 そして恋をしても、涙は溢れ出す。
 いろんなものを背負って涙は落ちる。
 涙に答えなんてない。ただ流れるだけ。どうしても零れるもの。

「でも、ぼくは嬉しくて泣いた経験なんてないですね」
 ボトルを手にマスターが言いました。
「ぼくがいちばん覚えている涙は、若い頃に周囲から恥ずかしい思いをさせられて、いまにみてろよ、と思った時の涙。帰りの電車の中で流した涙。それがいまでも忘れられない」

 ぼくは『WRITER’S TEARS』の写真を撮って、
 携帯メールで彼女に送りました。
 彼女は、それをどう受け取ったのかな。
 意味がわからないかもしれませんね。
 自分でもそれが精一杯の抵抗なのか、
 それとも最大の感情表現なのか、自分でもよくわかりませんでした。
 でも、彼女の存在によってぼくの涙があることは知って欲しかった。

『WRITER'S TEARS』


 モノ書きでありながら、言葉にできない自分の気持ち。
 真意を言葉で伝えられないもどかしさ。
 泣くしかない惨めなモノ書きの姿。

 きっと、ぼくは彼女のことが好きだったのだと思います。
 でも、もうぼくから歩み寄ることはできないでしょう。
 だから、泣くしかない。
 すべての複雑な感情を涙にして。

 でも、
 素直にひと言、彼女が寄せてくれたら……

 生きている限り涙を零し続けるのでしょうね。
 未来に向かって。

 WRITER’S TEARS。

 ちょっとだけ、とがった味がした。


地球はあなたを中心に回っているのでない

 このところ忙しく他のことに集中していて、
 なかなかブログを更新できるような状態になかったのですが、
 嬉しいことに更新を励ますご意見も頂戴したので、
 少しだけ最近あったことについて触れておきます。

 本当に自分の都合でしか、物事を考えない人というのは、
 この世の中にいるものなのですね。

 突然のことだったのですが、『創』という雑誌がぼくのもとに届きました。
 それも『週刊文春』の編集部に届いていました。
 同編集部に『創』から問い合わせがあって、ぼくに送本したいのだが、住所を教えてほしい、と言ってきたそうです。
 そこは気を遣った編集部が、ならば編集部宛に送ってくれ、と応じたそうです。
 編集部の方々は、間違いが起きないように、ちゃんと守っていてくれるのですね。
 有り難い。
 このところ忙しくて、それこそブログの更新もできないほどだったのですが、
 その中で文藝春秋を訪ねる機会ができたのが2月の終わりのこと。
 ようやく送られてきた『創』を手にすることになりました。

 ところが、中をみてびっくり。
 「謹呈」の付箋がついていたのですが、
 ぼくを名指しで取り上げた原稿は、なんと呼び捨て扱い。
 「敬称略」の添え書きもない。
 こんな失礼なことをされるのははじめて。
 執筆者がたっての願いで送って寄越したもののようですが、
 酷いことをするものです。

 この執筆者は、森達也という人でした。

 当人の2月20日更新のブログで、
「お手元には届いているはず」
「まさかそちらも黙り込むとは予想していなかった」
 などと息巻いていますが、
 相手の事情もきちんと確認できないでまくし立てる。
 しかも、記事に対する反応を期待しているようなのですが、
 最後には決まって、
「以降は黙殺する」
 と、ある。
 やれやれ……。どうしたものか。

 いままで、いろんな通り魔事件を取材してきましたが、
 こうした独り善がりの他責的傾向は、
 通り魔やストーカーに共通する性格、心理です。
 原稿の内容も、なぜ批判されているのか、その原因や根拠には一切触れず、
 とにかく自分は攻撃されている、と書く。
 いや、ほんとうにぼくの知る通り魔と同じ衝動。
 ちょっと怖くなりました。

 周囲の人たちからは、心配されて、
「もう無視したほうがいい」
「相手にしていたら、おまえの仕事もなくなるぞ」
 と、まで言われています。
 やれやれ……。

 相手にするつもりはないのですが、
 きっとこの人はまともに会話のできない人なのだと思います。

 ただ、記事の内容は、墓穴を掘るような、あまりにも酷いものだったので、
 時間があるときにでも解説してみたいと思います。
 そのほうが、森達也という人の正体がよくわかるでしょう。
 まあ、このブログを眺めてもらえば、
 彼の論拠が破綻していることはよくわかると思うのですが……


プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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