「オウムは自分の既得権益」と断言する森達也の見識

 赤坂に『木下家』というバーがあります。
 作家の開高健さんがよく通われていた店で、
 店内には同氏の写真やゆかりの品が飾られ、
 彼が愛用していたバーカウンターの席には、
 記念したプレートがはめ込まれています。
 開高さんが愛し、またお店も開高さんを愛したのでしょうね。

 そのお店も、今月30日に閉店するそうです。
 35年も続いた老舗のバーが幕を閉じます。
 きっと開高さんも嘆かれていることでしょう。

 その開高さんが嘆かれている、
 もうひとつのことがあるとすれば、
 彼の名を取った「開高健ノンフィクション賞」の選考委員に、
 森達也という人がなっていることでしょう。

 その森達也という人物について、
 その人間性を根本から疑う、
 彼の見識、言動について触れます。

 森達也という人は、『創』3月号、5・6月号において、
 ぼくたちが、彼の著作『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞したことに、「抗議書」を送付して講談社に対して抗議したこと、
 いっしょに連名で抗議した滝本太郎さんのブログのこと、
 それにぼくのこのブログの内容について、言及しています。

 抗議の内容や、ぼくのこのブログについて言えば、
 『A3』をはじめとする、彼の発言について、
 個別具体的に、間違っていること、嘘をついていることについて指摘し、
 批判しているのですが、
 森達也という人は、「すべてに反論できる」とした「抗議書」についてすら、
 具体的な反論はできずにいます。
(していない、のではなく、できないのだと、ぼくは思っています。なぜなら、その指摘がすべてあたっているから。)
 しかも、相変わらずの嘘を書き立て、
 ぼくの批判の根拠に触れもせず、
 読者にはその内容を隠したまま、
 批判の言葉だけをつかまえて、攻撃するという卑劣な手段をまたしても用いて、
 当初から森達也個人への誹謗・中傷を目的としているように吹聴しています。

「お願いだから汚い手で触らないでくれと言いたくなる」
「文中で自分たちが批判されている『A3』に、傷をつけて貶めたいだけなのだ」
「そこまで相手を貶めようとするのか」
「普通に読もうとしない理由は、最初から傷つけることを目的にしているからだ」
(『創』3月号より)

 などと、連呼した挙げ句に、
 最後にこうまとめているのです。

「彼らがこれほど執拗に森達也と『A3』を攻撃する理由にこそ、オウム後に社会が陥った隘路の深さが現れている。滝本にしても青沼にしても森にしても、いわばオウムによって今の位置がある。つまり既得権益だ。だからこそ必死になる。」
(『創』5・6月号 89ページ)

 はっきり言って、この見識には目を疑いました。

『創』5・6月号①
『創』5・6月号②
(『創』5・6月号より)※画像はクリックすると拡大します


 オウムがぼくにとっての既得権益?
 それで必死になって、講談社に「抗議書」を送る?
 既得権益を守るために?

 嘘でしょう! バカもいい加減にしていただきたい!

 そもそも、講談社に抗議書を送付したことで、
 ぼくはモノ書きとしての仕事を失っています。
 講談社で進んでいた本の出版の話も、いくつか立ち消えています。
 当たり前です。
 抗議した先が、出版の企画の進んでいた部門なのですから。
 自分の活躍するフィールドをそれだけ狭める結果になっているのです。
 それを、「既得権益」の死守のため、などと論評する見識は、
 明らかに誤っています。

 しかも、「オウムは森達也の既得権益」と断言する精神は、
 言い表す言葉、表現が見つからないほど(異常だとか、非常識とか、下劣なんて言葉では言い尽くせないほど)、
 もう〝どうかしている〟としか思えませんでした。
 それをぼくや滝本さんまで自分といっしょにしてしまう魂胆は、
 もはや腐っている。

 講談社へ「抗議書」を送るとき、
 そして、滝本太郎さんと藤田庄市さんといっしょに名を連ねたとき、
 そして、それでも抗議しなければ済まされないと考えたとき、
 いったいぼくにどれだけの覚悟が必要だったと考えているのでしょうか!?

 その覚悟さえわかっていない。
 人間が背負っているものすら洞察できない。
 独り善がりにしか、他人をみられない。
 この森達也という人は、心底、愚か者だと思いました。

 もはや、侮蔑の対象でしかありません。

 抗議の意図を、より多くの人に知ってもらおうと、
 このブログを立ち上げました。
 真っ先に「抗議書」を添付しました。
 そのときに、このブログのタイトルをつけました。

 是々非々にて候。

 利害や損益よりも、是々非々で物事を語ろうと覚悟したからです。

 それを、
「最初から傷つけることを目的にしているからだ」とか、
「既得権益」だとか、
 いったい、どういう見識や精神でそうした見解が導き出せるのでしょうか。

 ここまで蔑まされるとは思いませんでした。

 自分を「作家」と呼称しているようですが、
 もはや言論以前に、
 その根本にある人間性をも疑わざるを得ません。

 嘘をつき(その嘘についてはずっと指摘しています)、
 こんな浅ましく愚かな見識しか持ち合わせない人物を、
 よくぞ「ノンフィクション賞」の選考委員にしたものだと思います。
 開高健さんが存命なら、なんと言ったでしょうか。

 もっとも、誰を選考委員にするのか、それは主催者の勝手ですし、自由です。
 ですが、「オウムは自分の既得権益」などという見識を持つ人物の判断が、
 果たして信用できるものでしょうか。

 あるいは、ご自分の既得権益を脅かす作品が出てきたときに、
 この人はどういう対応をとるのでしょうか。

 侮蔑の対象を相手にするつもりはありません。

 ですが、森達也という人の正体については、
 折に付け、あらゆる場面で、
 そして「是々非々」で、
 今後も啓蒙していくつもりです。

 覚悟といっしょに。


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読解能力の欠如もしくは意図的誤読の悪質

 どうしてこういうことがいえるのか、
 まったく理解に苦しみ、
 自分で書いたことも忘れてしまうほどに、
 よほど読解能力がないのか、
 そうでなければ、
 意図的な誤読(それこそ悪質です)、
 あるいは苦し紛れの言い訳としか思えないことについて触れます。

 森達也という人が、『創』という雑誌の3月号と5・6月号の中で、
 ぼくのブログの内容に関連して、
 地下鉄サリン事件における麻原死刑囚の指示の有無について、
『A3』における記載を引用しながら、
 麻原死刑囚の指示のあったこと、
 それを『A3』の中でも認めていることを断言しています。

「当たり前だ。だって麻原から指示があったこと自体への懐疑など、当時も今も、まったく持ち合わせていないのだから。」
(『創』3月号 89ページ)

 以前から繰り返し触れているのですが、
 相変わらず、森達也という人は、『創』の中でも、
 この『A3』で唱えた、そして「抗議文」で指摘した核心部分を隠蔽し、
 まるで自分が攻撃されている被害者のように書いて、
 自分の主張の正しさを主張するという、読者を欺く卑怯な手段を用いているのですが、

『創』にはまったく記載ながなく、
 その一方で、
「抗議書」のなかにも最初に記載してある最大のポイントとして、
 彼は『A3』の中で、
「同意」「確信」という言葉を使ってこう結論づけています。

*****************************************************************
 連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。二年半にわたる連載を終える今、僕のこの直観は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない、そして麻原が弟子たちの暴走を促した背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した危機意識があった。
  *****************************************************************
(『A3』 485ページ)

 これは否定のしようのない事実なのですが、
 麻原死刑囚の〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉とは、
 すなわち、

 麻原は地下鉄にサリンを撒くことを指示していない、
 それを弟子たちが勝手にサリンを撒いた、
 だから麻原は無罪である

 とするものです。
 その他には、麻原一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論なんてありません。

◎一審弁護団の主張
 麻原の指示はない → だけど弟子が勝手にやっちゃった =弟子の暴走

 これに『A3』では「ほぼ確信に変わっている」と断言しています。

 ところが、今回『創』に記載されているところによると、
 麻原による地下鉄へのサリン散布の指示はあった、
 『A3』の中でも、麻原の指示のあったことはきちんと書いている、
 と主張して、その箇所を引用しています。

 そうすると、彼の主張はこういうことになります。

◎森達也の主張
 麻原の指示はあった → それに従ってサリンを撒いた =弟子の暴走?

 しかも、『創』5・6月号では、こうまで主張するのです。

「そして何よりも、矛盾などしていない。麻原は指示をした。そして弟子は暴走した。なぜそれがわからないのか。」
(『創』5・6月号 88ページ)

◎『創』における森達也の主張
 麻原の指示はあった → それに従って弟子たちがサリンを撒いた
           → 弟子たちが暴走した

 この場合の、「弟子の暴走」とは何を意味するのでしょうか。
 しかも、『A3』のくだり、「抗議文」が指摘している上記引用の箇所には、こうあるのです。

「ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない」

 麻原死刑囚が「促した」のならわからなくもありませんが、
 麻原死刑囚が「指示して」「暴走する」なんて、言葉としてもおかしいでしょう!

 この時点で考えられることは、

1)〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉をきちんと読み込めていない =読解能力の欠如

 そうでなければ、

2)苦し紛れの言い訳

3)自分の書いた『A3』の内容すら忘れてしまった

 どう考えても、どうこじつけても、
 明確に『A3』が「同意」「確信」したとして、
 はっきりと書き記している、
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉と、
 麻原死刑囚の指示のあったことは、
 同時に成立はしません。

 ポイントを絞って説明してもわからないようならば、
 次に、森達也という人が「渾身の一冊」と自讃する、
 『A3』の全体について考えてみます。

 そもそも、この『A3』という著作は、場当たり的なところが多く、簡単に言えば牽強付会な代物で、そこに「抗議書」でも指摘しているように、誤魔化しや虚偽が加わって理解に苦しむのですが、

第1に、
 単純に考えて、そして繰り返しになるのですが、
 森達也という人が、『創』の中で得意げに引用している、
 麻原死刑囚のサリン散布の指示のあったことを追認することと、
 結論として導かれる〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉への「同意」「確信」とが、
 並存、両立することからして、
 『A3』という著作は破綻しています。

第2に、
 仮に、著者が麻原死刑囚の指示に疑問を抱き、いろいろ迷いながら、取材を進めていくうちに結論に辿り着く。
 その過程における思考の材料の一部であるなら、自問の題材として、サリン散布の指示について書き記されていてもおかしくはない。
 つまり、

 サリン散布の動機がわからない → どうして麻原が指示したのか → やっぱり麻原は指示していないのではないか → そうだ、確認した = 一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論

 『A3』を読めば、そうとしか考えられません。

「抗議書」でも引用している箇所の冒頭、
「連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。」
 とは、麻原死刑囚の指示があったことへの疑問が先行していたことを意味し、
 得意気に『創』に引用した指示場面の記載についても、
「解明されていない」「どんな思いでいたのか」「命じたのか」
 といった否定、疑問形でしか引用されていません。

 麻原の指示はなかった、弟子が勝手にやったこと。弟子が暴走した。

 そう読ませる装置は、『A3』の中にあります。
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉を「確信に変わった」と述べる直前に、
 著者は二二六事件を例に取り上げているのです。
「忖度」という言葉を使って。
 もちろん、天皇が二二六事件を指示したことなどありません。
 青年将校の〝暴走〟があったことを語っているのでしょうが、
 それが直前に持ち出され、
「弟子の暴走」論、それも一審弁護団の唱えたもの、となると、
 どう考えても、麻原の指示はなかったことを意図するものでしかありません。
 そう仕向けているのですから。

 それが、最初から「麻原から指示があったこと自体への懐疑など、当時も今も、まったく持ち合わせていない」のだとすると、
 この著作の筋立てから導かれる結論、すなわち、
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉への「同意」「確信」とは、
 いったいなんだったのでしょうか。

「そして何よりも、矛盾などしていない。麻原は指示をした。そして弟子は暴走した。なぜそれがわからないのか。」

 だとしたら、なぜ二二六事件まで引用しているのでしょうか。

 やはり、自著に対する読解能力すら失っているとしか思えないのです。

 そもそも、たった1回、それも判決公判だけを傍聴取材して、判決を聴いたところで、
 麻原のサリン散布指示の内容がわからない、破綻している、整理されていない、というところを著作の入口にしていたはずです。

『A3』P8
(『A3』 8ページ)※画像をクリックすると拡大します

 麻原の指示のあったことを認めているのだとすると、
 麻原の具体的な指示の内容はどういうものだったのでしょうか。
 その結論が本著には全くありません。
 仮に、それが「麻原が語らないからわからない」というものであったとしても、
 だったら同じ理由で「麻原が語らないから」指示があったのかどうかもわからないはずです。
 いったい、どういう理由で指示があったことを認めているのでしょうか。
 その指示の内容とは、どういうものだったのでしょうか。
 よもや「暴走しろ」と麻原死刑囚が指示したとは、とても考えられないことですし、
 判決にあるとおりだとすると、それは作品として自ら否定していることになります。
 ノンフィクション以前に著作物としても、
 まさに駄作に位置するものです。

 ここへきて『創』にあるような言い訳をすることは、
 それは講談社ノンフィクション賞の評価をも裏切ることになるのではないでしょうか。

 そして、「抗議書」として、あえて声を挙げたように、
 講談社ノンフィクション賞は明らかに過ちを犯したとしか言いようがありません。


論争以前のお話

 無茶苦茶なことを言い出して、
 いったい何を主張したいのかもよくわからないし、
 呆れて言及する気にもなれず、
 忙しかったこともあって、
 優先順位は最下位にしておいたのですが、
 少し時間もできましたし、
 いまだにこういう人の言動を信じて、
 シンポジウムに招き、
 それをオウムと絡めてニュースで取り上げているNHKという媒体もあり、
 危機感も覚えましたので、
 あえて言及します。

 それと、言及が遅れたのは、
 真剣に法的措置をとることを検討していたこともあります。

 森達也という人が、『創』という雑誌の3月号と5・6月号の中で、
 ぼくのブログの内容について触れています。

『創』3月号より(※画像をクリックすると拡大します)
『創』3月号①
『創』3月号②
『創』3月号③

『創』5・6月号より(※画像をクリックすると拡大します)
『創』5・6月号①
『創』5・6月号②

 繰り返しになりますが、
 いったい何をいいたいのか、理解に苦しむ内容で、
 本質を突き放したところで、あれやこれや混ぜ込んでいて、
 何から触れていいのかも苦労するのですが、
 まずは、ぼくが体験したことと明らかに違うこと、
 相変わらずの森達也という人の「嘘」から触れておきます。

 『創』3月号のコラムのタイトルは「論争以前の二人」でした。
 その中で、彼はこう書いています。

「抗議書が発表されたときには、討論したいと返答した。でもこれについての反応はなく、またとても討論にならないと考えて、黙殺することを決めた。」
(89ページ)

 その上で、討論を呼び掛けたにも拘わらず、拒否してこちらを攻撃する酷い輩だ、と〝攻撃〟しています。

 ですが、これはまったくの嘘です。嘘の上に論旨が出鱈目です。

 第1に、
 ぼくは、森達也という人から直接的に、また彼の代理人という存在からも、
 討論を申し込まれたことは一切ありません。

 第2に、
 ぼくたちが講談社に抗議書を送付したのは、
 2011年9月1日木曜日のことになります。
 翌9月2日金曜日に、東京地方・高等裁判所内司法記者クラブにて記者会見を行っています。
 抗議書に名を連ねた滝本太郎弁護士によりますと、
 週明けの月曜日、9月5日に『創』編集部より森達也氏との討論の申し込みがあったそうです。
 ところが、森達也という人はご自身のブログ、9月4日日曜日に、
「反論する気が失せた」
「黙殺する」
 と公表しているのです。
 当人が「黙殺」を公言したあとに対談の申し込みが来るとは、
 常軌を逸しています。

 2011年9月1日(木) 「抗議書」送付
        2日(金)  記者会見
        4日(日)  森達也ブログにて「黙殺する」とコメント
        5日(月) 『創』編集部より対談申し込み

http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/colums02.html
(上記をクリックして「NO.139(2011.9.4)」 をみてください。)

 会見からわずか2日。
 それも土曜、日曜の間に「黙殺することを決めた」としていながら、「反応はなかった」としているのです。

 『創』3月号の誌面では、上記引用部分に続いて、
「ちなみにこの過程において『創』の篠田編集長が誌面での森との討論を申し入れたときも……」
 と、エピソードを披露していますが、
 これこそが
 ご自身で「黙殺する」と断言した翌日の申し込みなのです。

 およそ常識を持った人ならこんな失礼極まりないことはしませんし、
 それで相手を
「こんなレベルなのだ」などと蔑むなんて、はっきり言って、異常です。

 第3に、
 そもそも抗議書は講談社に対して行ったもので、
 森達也という人に向けて発信したものではありません。
 このような著作に賞を与えることがおかしい、と講談社に抗議し、
 その理由を記載しているものです。
 話し合いの相手にしている覚えはありませんし、
 「討論したいと返答した」とは、
 何を勘違いなさっているのか、皆目見当もつきません。
 『A3』という著作に自信をお持ちならば、
 講談社からいただいた賞に悠然として誇らしげに自慢していればよろしいことではないでしょうか。

 以上のように、「討論したいと返答した」「でもこれについての反応はなく」とするのは、明らかに嘘です。
 これを『創』という雑誌媒体にて公表している以上は、
 ぼくとしても法的措置を検討しているところです。
 仮にこのブログを読んでいることが認識されて、
 それでも『創』誌上で訂正と謝罪がない場合は、
 本格的に始動しようかと考えています。

 知人の弁護士さんたちは、
「言論には言論で返すべきであって、言論の現場に司法を持ち込むのは感心できない」
 と、ぼくに教えてくれます。
 でも、本当にいくら言っても、虚偽の事実(相手の主張を明確に伝えず誤った情報を読者に伝えることも含めて)を作り上げて、事実と異なることを公言することは、もはや言論にならない、許される領域を飛び越えていると思います。
 いちど、第三の場所に移して、はっきりさせたほうがいいでしょう。
 そうでないと、言論なんて成り立ちません。
 内容を精査せずに掲載する雑誌にも掲載責任はあるでしょう。

 さて、討論の返答、申し込みについて、話を戻すと、
 現実にはなかったことですし、
 「…たら」「…れば」の話をしても仕方ないのですが、
 仮に個人的に話し合いの申し出があったら、
 まずは、こう返答していたと思います。

「まずは『A3』の中にある嘘を訂正、謝罪していただきたい」

 なぜなら、森達也という人は『A3』という著作の中で、
 ぼくがいってもいないことをでっち上げて、
 しかも、ぼくの主張を意図的に隠して、
 読者を騙すように、
 ぼくが「勘違いしている」などと出鱈目の主張を展開して、
 貶めているからです。
 そのことを『卑劣な嘘』と表現し、
 個別具合的に、このブログで詳述しています。

『卑劣な嘘』
http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-3.html

 しかるに、『創』誌上にでもまたしても本筋を割愛した卑劣な手法を用いて、

「少なくとも僕は彼らに対して、討論は拒否しながらネットで、『歴史を改竄し』とか『意味不明の言葉に酔うだけの』とか『卑劣な嘘』などの言葉は使わない」
(3月号 91ページ)

 などと言及し、自分が謂われのない誹謗・中傷に曝されている被害者だと、主張する。

 なるほど、確かにそういう言葉は使わないにしろ、その前に嘘で相手を貶めている。
 もっと卑劣なやり方です。

 以前にもこのブログでちょっと触れましたが、
 森達也という人の手法というのは、

(A)という事象 → (A)についての論評 = A”
(B)という事象 → (B)についての論評 = B”

 があるすると、

(A)という事象 + (B)についての論評 = 飛んでもない奴だ!

 と、でっち上げの攻撃をする。

『鳥なき里の蝙蝠』http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

 それが(A)もしくは(B)という事象が、
 自分にとって不利益であることだとすると、
 それには一切触れない。

 しかも、自分の嘘が思い切り指摘されているのに、
 そのことについては反論どころか、一切触れない。

(A)あるいは(B)という事象の根拠を隠して、
(A)あるいは(B)についての論評だけを取り上げる。

(A)という事象  → (A)についての論評 = こんな言葉は使わない
(B)という事象  → (B)についての論評 = 誹謗・中傷が目的なのだ

 彼が『創』の中で取りあげている、ぼくのブログの中の言葉については、
 きちんと根拠を示しています。
 百聞は一見にしかず、として証拠のデータも添付しています。
「悪質な捏造」「卑劣な嘘」「読者をミスリード」の根拠もあります。
 まずは、その言葉を導くにあたっての根拠について、反論するなり、言及してから批判していただきたい。
 言及、反論できないのは、それがすべて当たっているから。
 だから、「最初から傷つけることを目的としている」などという、
 幼稚な論調しか展開できないのでしょう。

「って、アホか」についても、
 よりにもよって、講談社ノンフィクション賞の受賞の言葉で、
 敢然と無知と取材不足をひけらかしているから。
 まったく事実経過と異なることをまくし立てて、裁判を批判しているから。

『オウム的組織論』
http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-7.html

 ぼくがこんなことをしたら、バカにされます。言論人としても失格です。
 ところが、これについての言及は、一切ありません。
 ほんとうに卑怯な男です。

 もっとも、ぼくも指摘を受けて訂正しなければならないこともありました。
「羞恥心はないのでしょうか」のひと言について。
 これは訂正しなければいけませんね。
 もう既に過去の著作『下山事件 シモヤマ・ケース』において、
 証言の捏造のあったことを米原万里さん(故人)に指摘され、
「破廉恥」と酷評されているのでした。

『破廉恥』
http://aonumazezehihi.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

 破廉恥(=恥知らず)な男に、「羞恥心はないのでしょうか」と論評することは、本当に無意味なことでした。
 ごめんなさい。

 だいたい「黙殺する」「今度こそ黙殺する」と繰り返しながら、
 こんなわけのわからないことをまくし立てることからして、
 彼の言論人としての在り方そのものが「嘘」なのですから。

 卑怯な嘘つき呼ばわりされたくなかったら、
 「抗議書」の中でも、あるいは「黙殺する」といって黙殺できないでいる、
 彼の嘘について言及し、反論するところからはじめるべきだと思います。

 そういえば、『A』撮影中止の経緯については、
 あえて相手にするつもりもありませんが、
 本当に実名で公表できるものなのでしょうか。
 そもそも、それについてだって「抗議書」の中に記載してあります。
「すべてに反論できる」なんていいながら、碌に読めてもいないのでしょう。
 ひょっとしたら、嘘の前に読解能力がないのかもしれません。

 その恐るべき読解能力の欠如については、
「渾身の一冊」と自讃する『A3』の根幹を、
 特に、地下鉄サリン事件の麻原指示について、
 『創』3月号、5・6月号で根本から否定してしまっているのですが、
(いや、本当に読解能力の欠如でないとしたら、苦し紛れの言い訳か、嘘か、あるいは壊れている、としか思えません!)
 これについては、あらためて触れることにします。

 本当に無茶苦茶で、説明するのにも手間のかかる代物ですから。



小沢一郎の言質

 4月29日放送の
 フジテレビ「ザ・ノンフィクション」
 『ドキュメント アニメ 小沢法廷』
 の中でも触れましたが、

小沢一郎

 今回の裁判で問題となった土地購入の代金約4億円の原資には、
 1993年に刊行され、
 70万部を超す大ベストセラーとなった
 『日本改造計画』
 の印税があてられていると、本人が証言しています。
 その収入額は8000万円を超しているそうです。

 『日本改造計画』の刊行は、
 リクルート事件や東京佐川急便事件など、
 政治とカネの問題に端を発する政治腐敗が叫ばれ、
 政治改革をうったえ、自らを「改革派」と称して自民党を離れていく時期に重なります。

 その『日本改造計画』には、こうあります。

(第一部 今、政治改革を 一億二千万人の目で政治資金を監視 より)

 政治資金制度の改革と同時に、政治資金規正法違反者に対する罰則を強化し、政治腐敗防止制度を確立すべきである。具体的には、違反者を公民権停止処分にし、違反の言い逃れを封じるために連座制も強化する。
 これは、他の刑罰とのバランスからいえば、重すぎることになるが、政治家が自らの重い責任を果たすために自分自身を厳しく律する自律・自浄の措置として実施すべきだと思う。政治資金の全面公開と同様に、政治家自身が責任と倫理を明確にする制度として確立すればよい。

(『日本改造計画』73ページ)


 今回の裁判では、
 収支報告書に「虚偽記載」があったことを認めています。
 その上で、故意や共謀の事実を認めるには合理的な疑いが残るとして、
 無罪が言い渡されたものです。

 はっきり言って、これで政治家が無罪ならば、
 みんな同じことをやるでしょう。
 秘書が勝手にやったことにして、俺は知らなかったと言い張ればいいのですから。
 しかも、小沢元代表は、収支報告書の記載に不備はなかった、違法はなかった、とまで主張していたのですから、
 彼の見解そのものも司法の場で否定されたことになります。

 20年前のご自身の発言を政治家としてどのように解釈しているのでしょうか。
 まして、問題の土地の購入代金に売上があてられた著作だというのに……。

 そう思っていたら、
 虚偽記載の〝実行犯〟とされ、
 一審で有罪判決を受けている元秘書の石川知裕衆議院議員が、
 逮捕、起訴後に出版した『悪党 小沢一郎に仕えて』の中の対談で、
 こう述べているのには驚かされました。

(第3部 対決 小沢一郎が語った「原発」「遷都」「復権」 より)

小沢「よく言うように、国民のレベル以上のリーダーはでねえんだよ。衆愚の中からは衆愚しか生まれない。だから国民のレベルアップをしないといいリーダーも育たない。その意味でどうしたらいいのか。そういうことをもう少し日本人は自分で考えなきゃいけないな」
石川「はい」

(『悪党 小沢一郎に仕えて』226〜227ページ)

小沢、石川ジャージ
 いったい、小沢一郎という政治家は、
 どこの国の政治家であり、リーダーを務めようとしているのでしょうか。
 国民のレベル以上のリーダーが存在しないのなら、
 リーダーもまた国民のレベルアップなんて図れないないでしょうに!

 果たして、ご自分はどのレベルにあると認識されているのか。

 自己否定、自己矛盾の政治家。
 それに気付かないのだから、また質が悪いというか、笑っちゃうというか……。

 無罪判決を経て、
 民主党は小沢元代表の党員資格復帰を果たすようですが、
 所詮は衆愚の集まりに見えてきてしまうのは、
 裁判の現場を覗いてきたぼくだけでしょうか。


プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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