卑劣な嘘

 最初に結論ありきの「嘘」。「ヤラせ」。
 嘘をばれないようにするための情報隠し。検証精査の無視。
 そこに加えて、他者を貶める卑劣な嘘が『A3』には存在します。

 自分の無知を覆い隠して、それを他者に転嫁するとても卑劣なケースです。
 その槍玉にされているのが、ぼくなのです。

 同著の67ページの段間明け5行目から、69ページの章末にかけての部分。
 かつて、ぼくが『諸君!』(文藝春秋)2005年3月号に寄稿した論評を取り上げて批判しています。

『A3』より 67〜69ページ  ※画像は全てクリックすると拡大ます!
『A3』P67
『A3』P68-69


 この中で著者の森達也さんは、

「刑法における責任能力と刑事訴訟法における訴訟能力とを、どうやら青沼は混同している」(68ページ 7〜8行目)

 と、断言しています。

 ですが、このような事実はありません。

『諸君!』2005年3月号より
『諸君!』①
『諸君!』②
『諸君!』③
『諸君!』④


 一読すれば明らかであるように、ぼくは文中において刑事責任能力と訴訟能力とは分けて論評しています。
 森達也さんは、7年10ヶ月公判期日257回を数える麻原公判のたった1度、それも最後の判決公判を見ただけで被告人の麻原を「壊れている」と断言し、その上で以下のように公言する森さんの文章を、出典を明らかにして引用しているのです。
【同じ動作の反復は、統合失調症など精神的な障害が重度に重なったときに現れる症状の一つだ。麻原の一連の表情や動作に、周囲との同調や連関は全くない。つまり彼は、自分だけの世界に閉じている。俗な表現を使えば、「壊れている」ことは明らかだった】
【もちろん、彼のこの症状を統合失調症と断定はできない。でも詐病の可能性を口にするならば、精神鑑定を実施すればよい。少なくとも彼の表層的な言動は正常ではない。仮に演技ならば、それを見破ればよい。当たり前の話だ。ところがまるで暗黙のタブーのように、誰もこれを言い出さない。逮捕されてから現在まで、彼は一度も精神鑑定を受けていない。通常なら逮捕直後に実施されたはずだ。ところがなぜか為されなかった。誰も口にしなかった。鑑定が万能とは僕も思わない。でもやらないよりはましだ】
 これらは『A3』を執筆するずっと以前、麻原死刑判決直後に記されたもの(森達也著『世界が完全に思考停止する前に』より)です。
 この表記中における、精神鑑定とはいったいいつの時点の何を目的としてなされるものか混沌とするばかりなのですが、「通常なら逮捕直後に実施されたはずだ」ということからして、森さんは刑事責任能力を問う精神鑑定について言及しているものと読み取れます。
 これを前提として、『A3』中でも引用されているように、『諸君!』において、
「刑事裁判における精神鑑定とは、責任能力を争点として、犯行時の精神状況を鑑定するものをいう。あくまで、犯行時の精神状況もしくは心理状態が問題なのだ。
 ところが、彼によると、判決時に法廷で見た被告人の様子が「壊れている」から、精神鑑定を施すべきとする。その時点で、まず事実誤認があり、彼の論旨は壊れている」
 と論評しているのです。
 そもそも、刑事責任能力と訴訟能力の違いが明確でなく混同しているのは森さんのほうであり、これを整理、論述したのが『諸君!』なのです。

 そもそも、森さんは『A3』において、
「麻原には犯行時における責任能力がなかった可能性があるなど、僕はまったく思ってもいないし書いてもいない」(69ページ 1〜2行)
「少なくとも逮捕直後の彼は訴訟の当事者としては問題ない精神状態を保っていたと思う」(242ページ 15行)
 としていますが、そうだとすると上述のようように「通常なら逮捕直後に実施されたはずだ」とする精神鑑定の根拠がまったく見えないものとなってしまいます。

 どうしてこの文章が『A3』における見解になるのか。
 裁判員制度が開始されて2年以上が経ちますが、およそ裁判員になれる教育水準(義務教育を終了した人と同等以上の学識を有する)ならば、こんな過ちは犯さないでしょう。
 だけど、見てのとおり『諸君!』のぼくの原稿は5ページ半を占めているのに、「4頁にわたって」なんて数えてしまったり、引用文の書き取りも正確でないところをみると、その基礎能力にも疑問を持ってしまいます。

 「抗議書」にもあるように、きっと『諸君!』の指摘を受けてはじめて自分の無知に気付いたのでしょう。
「森氏は、自らが傍聴したのは逮捕から9年近く経った2004年2月27日の判決公判にのみであり、たったそれだけの状況から鑑定が主張できるのは刑事責任能力ではなく、言うべきは訴訟能力だけだとようやく刑事司法の基本に気付いたことから、自身の過ちには口を拭ってしまい、青沼氏こそ両者の能力について混同していると批判しているのである」(「抗議書」より)

 もともと、精神鑑定における無知、無勉強をひけらかしたのは森達也さんのほうなのです。
 意見を公言する言論人としてはとても恥ずかしいことですが、一個人としてみるなら、無知であることは決しては恥ずかしいことではありません。無知を指摘されて、学習すればいいのですから。
 ところが森氏の場合は、自らの無知を覆い隠して、他者に転嫁してこれを攻撃しているのです。
 とても卑劣です。
 それどころか、「言い返したくなる」と言い訳を付け加えながらも、「おまえの母ちゃんでべそ」などと、発言の当時者でなくその家族を意図的に誹謗する暴言を書き込むなんて、幼稚で、常軌を逸しています。
(ぼくは発言の内容とその当時者についてしか評論を加えていません。)
 言論への反論は、発言者の責任において記述の引用、客観的事実の開示を的確に行うべきです。そして読み手に第三者的な判断を求めるべきです。
 全文掲載ができない、あるいは読者に読み比べの機会のないことをいいことに、ここでも読み手に事情が伝わらないように必要な情報を意図的に隠匿して、恣意的に持論を押しつけ、自らの主張を光り輝くように見せかけています。
 やっぱり卑劣です。

 こうした手法は、司馬遼太郎氏の論評についても用いられています。
 これは「抗議書」でも指摘していることですが、
 『A3』では、司馬遼太郎氏の「週刊文春」1995年8月17日・24日合併号における対談で、
「僕は、オウムを宗教集団として見るよりも、まず犯罪集団として見なければいけないと思っています。とにかく史上希なる人殺し集団である」
 と、発言したことを引用した上で、
「『人を殺すならばそれは宗教でない』とのレトリックはあまりに浅い」(「A3」124〜125ページ)
 と、断言しています。
 ですが、司馬氏はこの雑誌の対談の中で、オウムは人を殺すから宗教集団でない、などとは一切発言してはいません。

「週刊文春」1995夏・合併号


「森氏は、人の発言を歪曲してもしくは言ってもいないことをでっち上げて読者を欺いているという外はない。この司馬氏との対談の相手は、選者のひとりでもある立花隆氏であった。立花氏がこの点をどう考えたか判然としないが、甚だ遺憾である」(「抗議書」より)

 驚くべきは、この問題が講談社ノンフィクション賞の選考会でも俎上にあがっていることです。
 9月5日発行の「g2」vol.8に掲載されている選考会の模様で明らかになっています。
 選考委員のひとり野村進氏がこう発言しています。

野村 『死刑』(朝日出版社)でもそうでしたが、ご自身の思いこみを読者に押しつけるような森さんの書き方に、どうも私は抵抗感があります。ほかの著者を批判するときに、自分の都合のいいところだけを引用し、自己流に解釈を加えて批判するやり方も賛成できません。例えば、『A3』には司馬遼太郎さんを批判している箇所があります。
重松 司馬さんが立花さんと対談したときの発言ですね。
野村 そうです。《僕は、オウムを宗教集団として見るよりも、まず犯罪集団として見なければいけない》《とにかく史上希なる人殺し集団である》という司馬さんの発言を引用し、森さんは《『人を殺すならばそれは宗教でない』とのレトリックはあまりに浅い》と言います。でも、そんなことは司馬さんだって言われなくともわかっているでしょう(笑)。

「g2」vol.8より
「g2」180-181
「g2」182-183


 そこまで指摘しておきながら、どうしてこの人たちは、こんな著作に賞を与えてしまうのでしょうか。

 こういう手法が素晴らしい、ノンフィクションにはこういう卑劣な嘘があってもいい、賞に値する、そう認めてしまうのですから、
 この人たちもどうかしています。

 結果的に、そうやってこの歴史に残る巨大事件の全体像、裁判の実態まで歪曲させてしまっているのですから、罪は重いと言わざるを得ません。

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プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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