読解能力の欠如もしくは意図的誤読の悪質

 どうしてこういうことがいえるのか、
 まったく理解に苦しみ、
 自分で書いたことも忘れてしまうほどに、
 よほど読解能力がないのか、
 そうでなければ、
 意図的な誤読(それこそ悪質です)、
 あるいは苦し紛れの言い訳としか思えないことについて触れます。

 森達也という人が、『創』という雑誌の3月号と5・6月号の中で、
 ぼくのブログの内容に関連して、
 地下鉄サリン事件における麻原死刑囚の指示の有無について、
『A3』における記載を引用しながら、
 麻原死刑囚の指示のあったこと、
 それを『A3』の中でも認めていることを断言しています。

「当たり前だ。だって麻原から指示があったこと自体への懐疑など、当時も今も、まったく持ち合わせていないのだから。」
(『創』3月号 89ページ)

 以前から繰り返し触れているのですが、
 相変わらず、森達也という人は、『創』の中でも、
 この『A3』で唱えた、そして「抗議文」で指摘した核心部分を隠蔽し、
 まるで自分が攻撃されている被害者のように書いて、
 自分の主張の正しさを主張するという、読者を欺く卑怯な手段を用いているのですが、

『創』にはまったく記載ながなく、
 その一方で、
「抗議書」のなかにも最初に記載してある最大のポイントとして、
 彼は『A3』の中で、
「同意」「確信」という言葉を使ってこう結論づけています。

*****************************************************************
 連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。二年半にわたる連載を終える今、僕のこの直観は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない、そして麻原が弟子たちの暴走を促した背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した危機意識があった。
  *****************************************************************
(『A3』 485ページ)

 これは否定のしようのない事実なのですが、
 麻原死刑囚の〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉とは、
 すなわち、

 麻原は地下鉄にサリンを撒くことを指示していない、
 それを弟子たちが勝手にサリンを撒いた、
 だから麻原は無罪である

 とするものです。
 その他には、麻原一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論なんてありません。

◎一審弁護団の主張
 麻原の指示はない → だけど弟子が勝手にやっちゃった =弟子の暴走

 これに『A3』では「ほぼ確信に変わっている」と断言しています。

 ところが、今回『創』に記載されているところによると、
 麻原による地下鉄へのサリン散布の指示はあった、
 『A3』の中でも、麻原の指示のあったことはきちんと書いている、
 と主張して、その箇所を引用しています。

 そうすると、彼の主張はこういうことになります。

◎森達也の主張
 麻原の指示はあった → それに従ってサリンを撒いた =弟子の暴走?

 しかも、『創』5・6月号では、こうまで主張するのです。

「そして何よりも、矛盾などしていない。麻原は指示をした。そして弟子は暴走した。なぜそれがわからないのか。」
(『創』5・6月号 88ページ)

◎『創』における森達也の主張
 麻原の指示はあった → それに従って弟子たちがサリンを撒いた
           → 弟子たちが暴走した

 この場合の、「弟子の暴走」とは何を意味するのでしょうか。
 しかも、『A3』のくだり、「抗議文」が指摘している上記引用の箇所には、こうあるのです。

「ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない」

 麻原死刑囚が「促した」のならわからなくもありませんが、
 麻原死刑囚が「指示して」「暴走する」なんて、言葉としてもおかしいでしょう!

 この時点で考えられることは、

1)〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉をきちんと読み込めていない =読解能力の欠如

 そうでなければ、

2)苦し紛れの言い訳

3)自分の書いた『A3』の内容すら忘れてしまった

 どう考えても、どうこじつけても、
 明確に『A3』が「同意」「確信」したとして、
 はっきりと書き記している、
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉と、
 麻原死刑囚の指示のあったことは、
 同時に成立はしません。

 ポイントを絞って説明してもわからないようならば、
 次に、森達也という人が「渾身の一冊」と自讃する、
 『A3』の全体について考えてみます。

 そもそも、この『A3』という著作は、場当たり的なところが多く、簡単に言えば牽強付会な代物で、そこに「抗議書」でも指摘しているように、誤魔化しや虚偽が加わって理解に苦しむのですが、

第1に、
 単純に考えて、そして繰り返しになるのですが、
 森達也という人が、『創』の中で得意げに引用している、
 麻原死刑囚のサリン散布の指示のあったことを追認することと、
 結論として導かれる〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉への「同意」「確信」とが、
 並存、両立することからして、
 『A3』という著作は破綻しています。

第2に、
 仮に、著者が麻原死刑囚の指示に疑問を抱き、いろいろ迷いながら、取材を進めていくうちに結論に辿り着く。
 その過程における思考の材料の一部であるなら、自問の題材として、サリン散布の指示について書き記されていてもおかしくはない。
 つまり、

 サリン散布の動機がわからない → どうして麻原が指示したのか → やっぱり麻原は指示していないのではないか → そうだ、確認した = 一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論

 『A3』を読めば、そうとしか考えられません。

「抗議書」でも引用している箇所の冒頭、
「連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。」
 とは、麻原死刑囚の指示があったことへの疑問が先行していたことを意味し、
 得意気に『創』に引用した指示場面の記載についても、
「解明されていない」「どんな思いでいたのか」「命じたのか」
 といった否定、疑問形でしか引用されていません。

 麻原の指示はなかった、弟子が勝手にやったこと。弟子が暴走した。

 そう読ませる装置は、『A3』の中にあります。
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉を「確信に変わった」と述べる直前に、
 著者は二二六事件を例に取り上げているのです。
「忖度」という言葉を使って。
 もちろん、天皇が二二六事件を指示したことなどありません。
 青年将校の〝暴走〟があったことを語っているのでしょうが、
 それが直前に持ち出され、
「弟子の暴走」論、それも一審弁護団の唱えたもの、となると、
 どう考えても、麻原の指示はなかったことを意図するものでしかありません。
 そう仕向けているのですから。

 それが、最初から「麻原から指示があったこと自体への懐疑など、当時も今も、まったく持ち合わせていない」のだとすると、
 この著作の筋立てから導かれる結論、すなわち、
〈一審弁護団の唱えた「弟子の暴走」論〉への「同意」「確信」とは、
 いったいなんだったのでしょうか。

「そして何よりも、矛盾などしていない。麻原は指示をした。そして弟子は暴走した。なぜそれがわからないのか。」

 だとしたら、なぜ二二六事件まで引用しているのでしょうか。

 やはり、自著に対する読解能力すら失っているとしか思えないのです。

 そもそも、たった1回、それも判決公判だけを傍聴取材して、判決を聴いたところで、
 麻原のサリン散布指示の内容がわからない、破綻している、整理されていない、というところを著作の入口にしていたはずです。

『A3』P8
(『A3』 8ページ)※画像をクリックすると拡大します

 麻原の指示のあったことを認めているのだとすると、
 麻原の具体的な指示の内容はどういうものだったのでしょうか。
 その結論が本著には全くありません。
 仮に、それが「麻原が語らないからわからない」というものであったとしても、
 だったら同じ理由で「麻原が語らないから」指示があったのかどうかもわからないはずです。
 いったい、どういう理由で指示があったことを認めているのでしょうか。
 その指示の内容とは、どういうものだったのでしょうか。
 よもや「暴走しろ」と麻原死刑囚が指示したとは、とても考えられないことですし、
 判決にあるとおりだとすると、それは作品として自ら否定していることになります。
 ノンフィクション以前に著作物としても、
 まさに駄作に位置するものです。

 ここへきて『創』にあるような言い訳をすることは、
 それは講談社ノンフィクション賞の評価をも裏切ることになるのではないでしょうか。

 そして、「抗議書」として、あえて声を挙げたように、
 講談社ノンフィクション賞は明らかに過ちを犯したとしか言いようがありません。


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プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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