鳥なき里の蝙蝠

「生の魚は食べられません。でも焼いた魚は好きです」
 そういう人もいるでしょう。
 鮨は世界に知られるところとなりましたが、それでも生魚を拒む人は世界的に見ても多いはずです。
 では、この言葉を省略してしまったらどうでしょう。
 例えば、テープに録音したこの言葉の下線部分をカットして繋いでしまいます。

「生の魚は食べられません。でも焼いた魚は好きです」

「生の魚は               好きです」

「生の魚は、好きです」


 発言者の真意が誤って伝わるどころか、まったく違った意思表示になってしまいますね。
 しばらく前のことになりますが、TBSテレビの番組が石原慎太郎東京都知事の発言の末尾を変えて放送して、大問題になったこともあります。
 マスメディアに携わる者が、絶対にやってはならない行為です。

 ところが森達也という人は、これをやっています。

 平成23年度第33回講談社ノンフィクション賞を受賞した森達也著『A3』。全531ページの中の19ページ目では、初公判からちょうど1年にあたる1997年4月24日の麻原被告の意見陳述の場面に触れています。
 それまで麻原被告は初公判以来ずっと罪状認否を「留保」とし、検察側の立証が進むに連れて急に態度を変えた被告人が不規則発言を連発しながら「意見陳述をやらせて欲しい」と訴え、被告人の懇願に弁護人も応じようとはせずに、ずるずると1年が過ぎて、ようやく与えられた意見陳述の機会だったのです。
 それだけに、当時はマスコミをはじめ、日本中が麻原被告の言動に注目していました。
 ぼくも、初公判以来ずっと傍聴取材を続けていて、その日も傍聴席で麻原被告の意見陳述を取材していました。その時の模様は拙著『オウム裁判傍笑記』にも詳述しています。
 そこで麻原被告は、起訴されていた17事件すべてについて、事件の認識や教団の関与、自身の具体的な対応についてまで、細かく認否を行ったのです。
 麻原裁判を検証する上ではとても重要な局面でした。
 ただ、この陳述が英語混じりであったことで、人々の意表を突きました。
 ぼくは、こうした予想を超えた言動(芸当)で人々の目を惹きつける  と同時に、そうして少なからず弟子たちを魅了していったであろう麻原被告の術を「最終解脱者」ならぬ「最終芸達者」と呼んだのです。
 しかも、17事件の認否が終わったあとには、裁判長や弁護人との掛け合いがはじまり、「自分はエンタープライズの上にいる」「日本はもう滅びてない」旨の発言まで飛び出したのでした。
 ところが、『A3』の作中では、17事件中のたった1件、地下鉄サリン事件の認否の一部だけを引用して、あとは認否が終わったあとの「エンタープライズの上にいる」の箇所だけを積極的に引用しているに留まります。
 当時を取材もしていない著者の意図としては、「ネット上で見つけた」という出所不明の弁護人と麻原被告との掛け合いを引用することで、ことさら被告人の精神異常を積極的に強調したかったのでしょう。
 その上で、この意見陳述の場面を現場でしっかり取材していた人たちの著作から、この評価の部分を取り出して痛烈に批判して見せるのです。

 例えば、『A3』24ページに、この「エンタープライズ」云々のやりとりを記載したあとに続けて、

【『オウム法廷〜』のあとがきで著書である降幡賢一は、
「もう一度その内容を読んでみると、それは『意味不明』と読み捨てるべきものでは決してなく、むしろ、被告がこの裁判や、問われている犯罪事実に対してどのような姿勢をとっているか、この社会をどのように理解してきたか、そして実際に教団でどのように振る舞ってきたか、などの点について、非常に示唆に富んだものだったことが、あらためてよく分かるように思えるのである」
 と記したうえで、
「被告の関心は、事件の被害者や、犯罪に巻き込んでしまった弟子たちのことより、まず、自分の無罪釈放だけに集中していたのだ。(中略)このように人々の発想を大きく超えた意表を突く発言をして、自分を誇大に見せるのが、教団の中にあっての松本被告のやり方だったのだろう。教団に引き寄せられた弟子たちは、『教祖』のそうしたやり方に、何か自分たちでは計り知ることが出来ないような、深遠な意味がある、と錯覚して、その前にひれ伏しているのだ」
 と断じている。
 示唆に富んでいるとは僕も思う。「尊師は意表を突く」というフレーズは、確かにこれまで、複数の信者から何度も聞いている。でも「意表をつくことで自分を誇大に見せるという手法を法廷でも使おうとした」との論理展開について率直に書けば、「本気ですか」と言いたくなる。麻原にではない。著者である降幡にだ。
 この意味不明の陳述や弁護人とのやりとりを「自分を誇大に見せる」ためと普通は解釈するだろうか。法廷を煙に巻くつもりなのだと仮定しても、その領域をあまりに逸脱している。】

 と記しています。

 ですが、朝日新聞の編集委員でずっとオウム裁判を取材してこられた降幡賢一氏がここで論じているのは「エンタープラズ」云々のくだりではなく、17事件に関して述べた麻原被告の陳述の内容についてなのです。
 森氏は勝手に論評の対象をはき違えて、これを攻撃しているのです。
 まして、「この意味不明の陳述」と森氏は書きますが、17事件の陳述内容については、本著でまったく触れていません。
 詳しくお知りになりたければ、「抗議書」の「別紙3」を参照してみてください。
 ぼくの『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)でも詳しく書いています。
 刑事事件を論評する上では、被告人の認否はとても重要で、避けては通れないものです。裁判の根幹を成すものです。
 まして、一連のオウム事件の首謀者とされる教祖の事件に対する見解なのですから、これこそが事件、裁判の検証に外すことはできないはずです。
 そこに触れないどころか、他者の論評をねじ曲げて攻撃している。
 そうまでして、「弟子の暴走」論、麻原無罪論を主張して、教団を擁護する意図はどこにあるのでしょうか。

 ここでは、ぼくも批判の対象になっています。

【降幡だけではない。『オウム裁判傍笑記』(新潮社)の著者である青沼陽一郎はこの陳述を総括して、
「架空の裁判を作り上げ、その結果がそうなっていることだから、と言い訳しながら無罪を主張している。実に稚拙な間接的言い回しで、同時に責任を転嫁した弟子たちからの批判もかわそうとしているずるさも感じられる」
 と記している。確かに弁明や責任転嫁のニュアンスは発言のそこかしこに滲む。でも稚拙やずるさなどの語彙だけで切り捨てられるレベルだろうか。その領域を明らかに逸脱している。】
(『A3』26ページ)

 ……って、ぼくが書いているのは、この裁判で最も重要な17事件の認否の内容についてです。(『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)192ページ)
 こういう書き方では、まるで降幡氏やぼくが「エンタープラズの上にいる」と麻原被告が発言したことについてのみ、論評しているように読み手に誤解を与えます。
 それで批評に曝されるのです。

 つまり、森氏の手法というのは、

(A)という事象 → (A)についての論評 = A”
(B)という事象 → (B)についての論評 = B”

 があるすると、

(A)という事象 + (B)についての論評 = 飛んでもない奴だ!

 と、でっち上げの攻撃をしているのです。
 そうやって相手を追い落とすばかりが、虚偽の事実を作り上げて、信じ込ませるのです。それも言葉巧みに。
 この場合だと、

「エンタープライズ」発言 + 17事件の認否についての論評 = 的外れな奴らだ!

 と言うことになります。

 そうやって、他者を陥れて、自分の見方が正しいと主張していきます。
 自分だけがこの世界を知って、賛美に値するのだ、と。

 つまり「鳥なき里の蝙蝠」になってみせるのです。
 現場をみて知っている鳥を追い落として、蝙蝠が鳥のふりをしてみせる。
 読み手は鳥をみたことがないから、蝙蝠の言うままを信じて、これが鳥なのだ、と信じてしまう。
 飛べるから鳥だ、と思い込んでしまうように、文字が書けるから真実だ、と信じてしまう。

 『A3』全体がそんな構図であることは、推して知るべしでしょう。
 麻原被告の17事件の罪状認否の内容(「抗議書」別紙3)はおろか、「弟子の暴走」論を検証する上で欠くことのできない判決(「抗議書」別紙1及び2)にすら触れていないのですから。
 そればかりか、森氏は過去の著作の中でも、取材対象者の証言を巡ってトラブルを起こしています。

 周りの鳥からすれば、蝙蝠を呆れてみていたのですが、それを講談社という組織が「素晴らしい鳥だ!」と持ち上げてしまった。
 選考委員も鳥を知らなかったのでしょう。
 そもそも鳥と蝙蝠の区別もつかない人たちが選考委員をやることからしておかしい。
 これでは蝙蝠が鳥となって、後世に伝えられていく。
 こんな異常事態はないのです。

「是を是とし、非を非とする、之を知と謂い、
 是を非とし、非を是とする、之を愚と謂う。」荀子

 愚の集団。
 所詮、彼らも蝙蝠を見て「鳥だ!」と叫ぶような仕事しかしてこなったのでしょう。
 そうでなければ、呆けています。
 とても尊敬には値しませんね。


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プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

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