「四谷大好き祭り」の陰で大嫌いになりかけている心境についての考察

 うるさいな。
 昨日といい、今日といい。
 それも朝から。
 東京四谷荒木町界隈では、この週末の2日間、
 飲食店が中心になって、通りや路地に屋台を並べるなど、
「四谷大好き祭り」と称する催しものをしているようです。
 荒木町のど真ん中にある荒木町公園では、
 特設ステージを置いてスピーカーでライブをドンジャカやっています。
 四方をマンションなどの建物で囲まれた場所で囃し立てれば、
 音が籠もってしまってたいへんなのに、
 あそこまでスピーカーで音量を上げる必要があるのかしら?
 お陰で、うまいのだかへたくそなのかもわからない、
 けたたましいだけの騒音だけが響いて、
 うるさくて、堪らない。
 まったく、仕事にならない。
 とっても迷惑。
 そもそも近隣への配慮が足りない。
 そういう催しものがあるのだったら、
 事前に近隣住民に通知があってしかるべきなのに、
 主催者側からはなにもない。
 それもおかしな話だと思うのですが、
 まあ、それで楽しんでいる人たち、それも喜んでいる子どもの姿を目撃しちゃうと、
 文句も言いにくくなる。
 仕様がない、ここは少しばかり我慢しよう。
 そう思って大人ぶってはみるのですが……

 ぼくには、同じ界隈でどうしても我慢のできないことがひとつあります。
 仕事柄、署名原稿や本を書くこと、あるいはテレビに顔をさらけ出すこともあるのですが、
 それをいいことに、ひとりで食事をしたり、ひとりでお酒を楽しんでいるところへ、
 いきなり絡まれたり、罵倒されたら、みなさんは黙っていられるしょうか。
 それもわずか数ヶ月前に、とても信じられない体験をしました。
 お陰で「四谷大好き」どころか「大嫌い」になりかけています。
 少し長くなりますが、いい機会なので自戒を込めつつ、詳しく記録しておきます。
 熱くて息苦しくなるようなこの夏の思い出の続きをもうひとつーー

*****

 ぼくはよくお酒を呑みます。
 ここ1年ほどは、根を詰めた仕事も多かったので、深夜に人の臭いを嗅ぎたくて、よくバーに出没していました。
 荒木町が多かったと思います。

 荒木町はもう十数年来親しくしてもらっているのですが、
 最近、古い店が閉まって新しい店が暖簾を下げるという、
 いわば新旧交代が進んでいるように思います。
 いままではぼくよりも年上の職人さんが提供してくださる料理に感銘していたはずなのに、
 いつの間にかぼくよりも年下の人たちが、
 それもご夫婦でお店をもたれて、
 それも美味しい酒と肴を味合わせてくださる。
 それが歴史や伝統のひとつのかたちなのかと感慨すら感じています。

 そんな荒木町に震災のあとにできたバーがあります。
 仮に「A」というお店にしておきましょう。
 ぼくより若い女性のバーテンさんがひとりで切り盛りしている小じゃれたバーです。
 他のお店の経営者さんに紹介されて、のぞいてみたのですが、
 彼女の人柄も雰囲気も、それに提供されるお酒もとてもよく、
 深夜ともなると地元のお店の方々も通っていらっしゃいます。
 そこでいろんなお店を紹介してもいただきました。
 実際に、紹介されたお店にいってみると、
 新しい、若いお店ではありましたが、
 とっても料理が美味しかったり、雰囲気がよくて、
 仕事柄ご一緒させていただく編集者さんなども、
 気に入ってくださっている様子でした。

 さて、ある夜のことです。
 そのA店に、同じ荒木町で青い看板を掲げる「B」という店の経営者兼俗にいう“ママ”と呼ばれる女性が入って来ました。
 もう10年も前に、新宿でお店を構える知人に紹介されて、この「B」という店にも顔を出したことがあるのですが、
 あるときからばったり行かなくなりました。
 ひと言で言ってしまうと、客を選り好みして絡むのです。それも上から目線の横柄な態度で。攻撃的に。
 例えば、「おまえにそんなこという資格はない」「おまえにそんなこといわれたくもない」などと暴言を吐き、筋も理由もなくこちらをなじる。まるで不平不満の捌け口にする。人を見くびっている。
 それがとっても不愉快でしたし、お金を払ってお酒を楽しみにいって嫌な気分になるというのもおかしな話ですから、そんな店にはいかなくなりました。
 それでも、ずっと店が続いているのは、どこかマゾイスティックな人たちが、なじられるのを喜んでいたからでしょう(ぼくは御免ですが)。
 ところが、このBのおばさん、困ったことに、他店で行き会っても絡んでくる。
 ぼくがひとりでいても、ことあるごとに絡んでくる。それも攻撃的に。
 その度に不愉快な気分になる。
 だから、このおばさんが大嫌いでした。できることなら、顔も見たくない。意図的に避けていたことも事実です。
 そこに数年ぶりにA店で遭遇してしまったのです。
 ぼくは席を立ちました。顔を見ただけで不愉快になったものですから。
 そのとき勘定ついでに店員さんにこれまでの経緯を話しました。ぼくが彼女を見ると、どうしても不快になることもいっしょに。
 あとで聞いたところによると、行き違いにぼくが店を出たことに、彼女は「アオヌマと和解できるいいチャンスだったのに」などと言っていたようです。
 ぼくにしてみれば、A店にBおばさんが出入りしていると知ったことのほうが衝撃でした。

 それから数日経った日のことです。
 ぼくがA店にひとりでいると、再びBおばさんが入って来ました。
 狭いカウンター席はぼくの隣しか空いていません。
 女性のバーテンさんはすぐにBおばさんに駆け寄って事情を話したようですが、そんなことを意に介さないようにおばさんはずけずけと入ってきて、平然とぼくの隣に座りました。
 そして、彼女はいきなり吐き捨てるようにこう言ったのです。

「おう!アオヌマ! おまえの週刊誌連載読んだぞ」

 いったいどういう因縁や立場でそんな言い方をされるのかわかりません。
 しかも間髪を入れずにこう続けるのです。

「だけど、おまえ、大失敗だったな!あの記事は」

 異様に不快になりました。だけど、他にもお客さんがいるのですから、その場の雰囲気を壊すわけにもいきません。その態度といい、言動といい、抗議したいところをじっと堪えていました。すると、
「アオヌマ、読んだんだぞ」
 もう一度くらい言いました。仕方がないので「そうですか。ありがとうございます」というと、「大失敗だったな」と続ける。「あ、そうですか」と答えて会計を急がせる。バーテンさんは、そのやりとりを「おもしろーい」といって場を取り繕うとしていました。だけど、こちらは腹の底が煮えくりかえるほど不快で堪らない。しかも、そこで「どこが失敗なんだ!」などと言い返せば相手の思うつぼ。そこから会話がはじまって、一層攻撃的にこちらをなじりにかかる。
 過去の経験からもわかるのですが、結局、彼女はそうやってある対象を場の中で貶めることによって、満たされない自意識を満足させる。それで他のみんなが笑って盛り上がれば、なおさら嬉しい。そうして存在感を誇示し、自分より弱い人間の存在を確認して虚しさを癒す。まさに苛めの構造。
 しかし、それは独りの客として楽しんでいる相手にいうことではない。
 明らかにぼくを蔑んで絡んでいる。
 最初から横柄な態度をとる、それで許されると思っている。
 この女性は、どこか人格も歪んでいる。
 絶対に相手になどしたくない。
 さっさと会計を済ませて店を出ようとすると、彼女は捨て台詞のようにこう言いました。

「おまえよぉ−! 荒木町を歩くときはもっと明るい顔をしろよ!」

 なんでそこまで言われなければならないのか。まったく不快になって店を出ました。
 あらためて書き記してみても、彼女の言動は明らかに〝異常〟としか思えません。

 それから数日。
 A店でお酒を楽しんでいると、Bが顔を出すことしばしば。
 その度に、ぼくは店を出ます。
 あるいは、ぼくがA店をのぞくとBがカウンターに座っている。
 そうするとぼくは中には入らない。
 いままで快適に済んでいたことが阻害される。
 それがいつしかストレスになって溜まっていく。
 もちろん荒木町には他にもいろいろなバーがあって(だから楽しい)、他所にも向かうのですが、その度にこんどはBに対するぼくの愚痴が出るようになる。
 いわば同じ商店街の商売仲間ですから、彼らもBのことはよく知っている。
 意図的に愚痴っているところもありました。
 彼女の異常さをわかってもらおうと。
 その度にみんなぼくに同情的になってくれて、
「あとで、ガツン! と言っておいてやるよ」
 という人もいたのですが、
 あるときやっぱりA店をのぞいてみると、
 そのバーテン仲間さんたちがBを囲んで楽しくやっている。
 そんな場面にも遭遇して複雑な気持ちになりました。

 そして、またあるとき、ちょっとほろ酔い心地でA店をのぞいたことがありました。
 すると、Bがいたのです。
「なんで、あんな奴がいるんだよ……」
 溜まらず零すと、A店の彼女に言われました。
「Bさんだって、大切なお客様ですから!」
 あとになって考えてみると、それがすべてだったように思います。

「C」という店があります(これも仮に「C」と呼ぶことにします)。
 このお店もA店さんからのご紹介でよくのぞかせていただいていました。
 その夜は、他にお客さんは泥酔した男性がひとりカウンターに突っ伏していました。
 そこでやっぱりBの話になりました。
 最近、Bの話をすると、あの上から目線の絡み口調が「彼女の愛情表現だから」という人もいて、それを一所懸命に否定していました。
 あれを「愛情表現」というのは、暴力を体罰やしつけと言ったり、苛めを可愛がりと呼んだりするのと同じだと言っていました。
 そして、彼女の人格異常について語っていたときです。
 扉が開いて客がひとり入って来ました。
 バーテンさんが一瞬目を丸くしたので、誰かと思えば、なんと、
 BおばさんがC店に入って来たのです。
 さすがにびっくりしました。そして、たちまち嫌な気分になりました。
 このところ、ずっとぼくを襲う異様な不快感です。
 Bは平然とカウンターの前を横切ると、ぼくのひとつ席を隔てただけの隣に腰を下ろしました。
 ぼくはいつものように店を出ようとしました。
 数千円をカウンターの上に置き、立ち上がろうとした瞬間に、バーテンに向かった彼女の声が耳に響きました。
「久しぶりね」
 その瞬間でした。
 お酒も入っていて、彼女の不快な話をしていたのだから、我慢も限界にきていたのでしょう。
 ぼくは自分のグラスの中味をBの顔にめがけてぶち開けていました。不幸なことに(と、いうよりは幸いに)中味は小さな氷しか入っておらず、それもグラスが長かったから、あらぬ方向に飛んでいって彼女にあたることはありませんでした。
 てめえ!ふざけるな!
 たぶん、そんな言葉を発したと思います。完全に興奮していて、どんなことを最初に言ったのか、よく覚えていません。
 あってはならない汚い言葉も発したと思います。
 でもどうしても我慢できなかった。
 それから、俺に絡んでくるな!とか、何様のつもりだ!とか、そんなことを言ったのだと思います。ぼくがまくし立てていると、彼女はこう言い返しました。
「こっちは、読んでるんだぞ」
 相変わらず、でした。おまえの週刊誌記事を読んでやっていている。
 だからって、あんな口調で、人前で蔑んだように絡んでいいはずもない。
 いったいどういう立場で、この人はモノを言っているのだろう。
 その顔を見たくもない。
「だったら、引っ越せばいいじゃないか!」
 Bはそう言いました。
 それは、あなたが言ったからだろう。「荒木町を歩くときは、もっと明るい顔をして歩け」と。あんたみたいな奴がいるから、暗い顔になるんだろう。それをどういう立場で、何様のつもりで言ってんだ! だから、同じ立場でおまえにいってんだよ。二度と俺の前に顔を見せるな!
 彼女は言いました。
「そんなこと、言ってねぇよ!」

 あとで冷静に彼女の言動を振り返ってみると、
 やはりこの女性は「人格障害」なのだと思います。
 仕事柄、いろいろな刑事事件の裁判を見てきて、
 殺人犯の精神鑑定にも触れてきました。
 そこでは統合失調症までいかないものの人格障害と呼ばれる範疇にあると鑑定されることもしばしばです。
 最近では(と言っても震災の前になりますが)、法政大学のキャンパスで教授を刺し殺してしまった卒業生がこれにあたりましたし、
 通り魔にもこうした傾向が見られます。
 ひとり静かにお酒を嗜んでいて、いきなり悪態をつかれたり、暴言を吐かれて、絡まれるのも、通り魔にあったようなものです。
 彼女の場合は、そうやって選んだ相手を攻撃して、自己愛を満たす。
 自分の店にやって来る客をそうあしらうのであれば(それが好きな客がやって来るのだから)、それでいいかもしれない。
 だけど、それを自分も客として訪れた同業他社の店にいる客に絡む異常さ。
 荒木町という狭い社会の中に存在する人格障害者。
 その障害者を街が受け入れていっしょに生活している。

 気が付くとCさんに店の外に連れ出されていました。
 ぼくがキレてしまったその瞬間から、
 ぼくこそが疎まれる存在になったのです。
 ぼくがある日突然、一方的に不快な思いに落とされたように、
 Cという店にもとっても、ぼくがそういうことをしてしまったことになるのです。迷惑をかけたのです。
 理不尽だと思いました。
 ですが、Cさんにとってはぼくの言動こそ理不尽なのです。
 そして、また再び同じ過ちを繰り返さない為には、Bの存在を遠ざけることでした。
 それは結局、彼女と同じ空間を共有しないこと。
 でも荒木町という空間は彼女を受け入れています。
 人格障害者であっても「大切なお客様」として扱われるのです。
 商売仲間として和気藹々とつるんでいくのです。
 そうして商売を支え合うひとつの世界が成り立っていく。
 傷つきたくなかったら、ぼくのほうが放れていくしかない。
 一方的に傷つけられたはずなのに。
 たかが飲み屋さんの話です。そこに依存するつもりもありません。
 ですが、廃絶されていくぼくの人格にどこかで折り合いをつけるとしたら、
 人格障害者を受け入れて補完するエリアを嫌いになるしかない。
 おかしな街、異常な街と決めつけて納得するしかない。
 もちろん、荒木町という街にはもっと素敵な店が沢山あります。
 一緒くたにいうことはおかしい。
 ですが少なくとも、人格障害者といえども人を虐げて喜んでいるような輩とつるんでいる空間をぼくは忌々しく思う。

 ぼくの好きな小説のひとつに
 村上春樹の『沈黙』というものがあります。
 とても短い作品です。(前にも紹介したことがあります。)
 今回のことでその小説を再び思い出しました。
 いま、ぼくに向けられている沈黙も、この類のものなのだろうと感じています。
 彼女を取り囲む人たちは、そうやって静寂を保とうとする。
 でも、そうやって生活していく。

 Cさんにはとても悪いことをしたと思うけれども、
 これからもC店にはいけないし(なぜなら、ぼくが粗相をしたから)、
 また、行くこともないでしょう(なぜなら、Bが出入りする店だから)。
 これが街を心ならずも嫌いになっていく理由なのです。
 もうこんなおかしな空間に身を置いてはならない。

*****

「四谷大好き祭り」とはいうけれど、
 みなさんもおかしな輩に絡まれないように気をつけてください。
 いいお店はいっぱいあります。
 ですが、おかしな輩も少なからずいるのです。
 それもはっきりこちらが身体を張って抗議しないと、事態が理解できないような(いや、いまも理解できていないかも知れない)おかしな輩が。

 因みに、すべてを匿名で書いたつもりでしたが、
 そうでもなさそうなところが1カ所だけあります。
 まあ、同じ被害者を出さない意味でも、
 ご勘弁を……。


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

あおぬまよういちろう

Author:あおぬまよういちろう
【青沼陽一郎】
「ジャーナリスト」(週刊文春・週刊新潮)と呼ばれたり、
「ノンフィクション作家」(週刊現代)と呼ばれたり。
 日本文藝家協会・会員名簿には「作家・ジャーナリスト」とある。
 著書に『池袋通り魔との往復書簡』『オウム裁判傍笑記』(小学館文庫)『食料植民地ニッポン』(小学館)『裁判員Xの悲劇』(講談社)『私が見た21の死刑判決』(文春新書)『帰還せず-残留日本兵六〇年目の証言-』(新潮文庫)など。
 映像ドキュメンタリーに『虚像の神様〜麻原法廷漫画〜』シリーズ。

ぜぜ−ひひ【是々非々】
 よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断すること。
「 是を是とし非を非とす る、之を知と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う」『荀子』修身より

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR